紀行写真集


甲州道中 ぶらり徒歩の旅 2

呉服橋〜丸内



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江戸

永代通り、呉服橋


  日本橋交差点を左折すると永代通りに入る。嘗ては、ここ外堀に呉服橋が掛かっていた。甲州道中は呉服橋を渡り北町奉行所の前を通り、和田倉橋へ真っ直ぐな道があったが、今は東京駅となっており道は消滅している。仕方ないので東京駅の地下道を抜けて進むことになる。
  呉服橋の右手にあったのが、一石橋(いっこくばし)である。

一石橋
  日本橋川が江戸城外堀に合流する地点に江戸初期に架けられた橋。
  橋名は、橋の北側に幕府金座御用の後藤庄三郎、そして南側の呉服町には幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって、五斗プラス五斗で一石と名付けた由。洒落たネーミングである。  
一石橋迷子しらせ石標
  江戸時代はこの辺から日本橋に掛けては盛り場で迷子が多かったようだ。迷子が出た場合、町内が責任を持って保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、一石橋の袂に、安政4年(1857年)、この石標を作った。
  柱の正面に「満(ま)よい子の志るべ」、右側に「志らする方」、左側に「たづねる方」と彫られてあり、迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た人が知っている場合は返事を書いた紙をここに貼ったという。


丸の内
東京駅横断地下道
  呉服橋の交差点を左折し、外堀通りから東京駅の八重洲口から反対側の丸の内へ通じる地下道に入る。正しくは東京駅八重洲北口連絡通路である。
  八重洲の名はヤン・ヨーステンからきている。慶長5年(1600年)、オランダ船リーフデ号で豊後に漂着したが、家康の信任を得て、ここに江戸屋敷を賜ったことによる。
  地下道を抜けると丸の内である。出口に丸の内鉄道橋記念塔(左写真)があった。日本橋川に架かっていた鉄道橋(東京駅と神田駅間)の橋柱である。
  そして、東京都が建てた、石造の案内標識があった(右写真)。丸の内今昔散歩と彫られてあり、上面には付近の地図が描かれていた。それによると、この辺に幕府の評定所と伝奏屋敷があったようだ。残念ながら、今はその面影は全く無いが。
  
  なお、丸の内とは外堀の内側の御曲輪内(おくるわうち)から来ている。親藩や譜代大名の屋敷が24あったという。

(東京都中央区丸の内)
0906/0908
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