紀行写真集
甲州道中 ぶらり徒歩の旅 5
江戸城・本丸跡
Hitosh
本丸跡 |
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緩い坂を上ると、平坦な広い本丸跡がある。全面が芝生で覆われていた。本丸は本丸表と中奥、大奥に分かれていて、手前が本丸表で右奥が中奥、大奥であった。 本丸表は儀式、政務の場であり、役人の詰所や政務を執る部屋、そして諸大名の詰めの間などがあった。中奥は将軍の公邸にあたり、ここで日常の起居や政務を見ていた。大奥は将軍の私邸で、御台所(正室)を中心に、将軍の子女やその世話をする女中達が生活していた。 なお、将軍世嗣や大御所は西の丸であった。今の皇居はこの西の丸にあり、かつての本丸や二ノ丸、三ノ丸跡は皇居東御苑として一部が公開されている。 江戸城は、12世紀初頭に江戸氏が、15世紀には太田資長(太田道潅)が築城している。その場所がここの本丸台地と呼ばれるところであった。16世紀末、家康の入封に伴い大規模な修築が行われ、家光時代にほぼ完成された。 写真の中央に植えてある樹木は、今は余り見られなくなった古品種の果樹(柑橘類や梨等)で、天皇陛下、皇后陛下お手植えの果樹もある由。 その時に詠まれた御製(天皇陛下の歌) 「皇居東御苑 江戸の人 味ひしならむ 果物の 苗木植ゑけり 江戸城跡に」 が添えられてあった。 |
富士見櫓 江戸城で唯一の三重櫓である。明暦の大火(1657年)で、消失した天守閣の代用としても使われた櫓であった。 かつて、江戸城には19の櫓があったが、現在残されているのはこの富士見櫓を含め3つしかない。 この富士見櫓の先が、西の丸(現皇居)であった。今は当然、この先は公開されていない。 |
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松の大廊下跡 本丸跡の松の大廊下跡である。江戸城では2番目に長い廊下で、畳み敷きの立派なものであった。 ここが、あの忠臣蔵で御馴染みの松の廊下である。元禄14年(1701年)、浅野内匠頭長矩が吉良上野介への刃傷事件を起こした所である。 |
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本丸・午砲台跡 本丸跡に午砲台跡の石碑があった(写真左下)。明治4年よりここで、陸軍近衛師団が空砲による報時を開始したところである。この空砲の音は「ドン」と呼ばれ親しまれていた。 今でも半ドンと言う言葉が残っている。正午の大砲の「ドン」という音より、一日の半分が休みなので「半ドン」と呼ばれるようになった様だ。(オランダ語で日曜日、休日を意味するゾンダグがドンタクと訛り、半分のドンタクからとの説もある) |
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岩室 抜け穴とか金蔵とかの説もあるが、大奥御納戸の脇と言う位置から、非常の際の大奥用の調度などを納めていたところと考えられている。伊豆石で作られた堅牢なものであった。 |
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