紀行写真集
甲州道中 ぶらり徒歩の旅 18
新宿御苑〜内藤新宿
Hitosh
新宿御苑(旧内藤家) |
大木戸門 環境省管轄の国民公園、新宿御苑の入口・大木戸門である。 新宿御苑の敷地は、家康が江戸城に入城した際に、岡崎からの譜代であった内藤清成に授けた下屋敷の一部である。 東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、甲州道中、青梅街道、鎌倉街道が交差する要地であったため、信頼できる家臣に与えたようだ。 |
玉藻池、日本庭園 |
玉藻池を中心とするこの日本庭園は、安永元年(1772年)に 玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園「玉川園」の一部であった。 なお、内藤清成は江戸町奉行や秀忠の守役を務めた、所謂岡崎譜代の一人である。 |
新宿御苑・イギリス風景式庭園 |
内藤氏7代目の清枚は、元禄4年(1691年)に3万3千石で信州高遠城主となっているが、 内藤家の江戸屋敷地が石高に比べ広大であったため、 その後かなりの部分を幕府に返上したという。 それでも、明治5年には10万坪以上が残されていた。 明治5年、内藤家から上納されたこの土地に、明治政府は日本の近代農業振興を目的とする 「内藤新宿試験場」を設け、欧米の技術や品種を含めた果樹・野菜の栽培、養蚕、牧畜等の 研究を行った。 明治12年、その一部を宮内省所管の「新宿植物御苑」とした。 そして、戦後の昭和22年、新宿御苑は皇居外苑、京都御苑と共に、 国民公園として一般に開放されるようになった。 なお、新宿御苑一帯の住所は新宿では無く、今も内藤町である。 明治時代、当初は内藤新宿町であったが、後に新宿と、この内藤町に分割されている。 |
内藤新宿 |
新宿1丁目(旧内藤新宿) 甲州道中の内藤新宿、現在の新宿1丁目に復帰する。この街道に沿って、宿場があったところであるが、その面影は全く無い。 「内藤新宿 馬糞のなかに 菖蒲(あやめ)咲くとは しほらしや」と当時の俗謡にある。如何にも宿場の雰囲気を伝えている。菖蒲は、内藤新宿に大勢いた飯盛り女を例えたものだ。 「紅粉の粧ひ 恰も吉原におとらぬ 春花を 置きたり」と、遊興の地でもあった。死んだ飯盛り女の投げ込み寺であった成覚寺には供養碑が残されている。 |
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三遊亭円朝旧居跡 新宿1丁目の路地を入ったところにある花園公園の端に、明治を代表する落語家三遊亭円朝の旧居跡の石碑が建っていた。 怪談の牡丹灯籠や、人情噺が得意であった落語だ。この地名、花園も何か艶めかしいが、内藤新宿の鎮守花園神社に因む地名の様だ。 |
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