紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 555
三戸町目時〜梅内
Hitosh
駕籠立場吉田松陰記念碑 |
馬淵川を見下ろす駕籠立場にある吉田松陰の記念碑(右端)だ。 吉田松陰は、嘉永4年(1951年)12月より嘉永5年4月まで、 盟友宮部鼎蔵と東北遊歴の旅に出る。 長州藩を脱藩しての旅立ちであった。 その時の、「東北遊日記」の一節が刻まれてあった。 「浅水坂を越えて浅水駅に出て、初めて麦芽の寸許なるを見る。 〜中略〜 野辺地、七戸から三戸に至る。 戸数は五戸に比して更に多し。 土人云わく、「地着の士百名、同心40名」と。 駅傍に古城跡あり。 2百年前、盛岡候ここに都せりと云う。 蓑坂を過ぎ、金田市(一)、福岡を経、末の松山を越えて一戸に宿す。 嘉永5年(1852年)3月9日」 南部発祥800年を記念して建てられた碑である。 なお、吉田松陰はこの時、江戸の長州藩上屋敷から水戸、銚子を訪れた後に、 一旦水戸戻っている。 そのあと、白川、会津、新潟、佐渡、久保田、弘前、竜飛岬、三戸、石巻、仙台、 会津、足利と巡り翌年4月5日に江戸に戻っている。 吉田松陰のこの足跡を辿ってみるのも面白そうである。 |
駕籠立場、下り道 |
駕籠立場からの旧街道は、快適な下り道となっている。 車の轍があるので、駕籠立場までは三戸側からだと、車でも入れるのであろう。 |
駕籠立場一里塚 |
旧街道を暫く進むと、両側に一里塚が残されてあった。 駕籠立場一里塚で、両側とも、現在の街道から6mも高いところにある。 長年にわたり、街道の勾配を緩くするために削られたためである。 |
東側駕籠立場一里塚 右側(東側)にある一里塚だ。写真上の切り通しの右上にある塚である。 |
三戸梅内、旧街道 |
駕籠立場一里塚からの快適な旧街道を下っていく。 五月の爽やかな風が感じられるところだ。 地名は、三戸町の目時から梅内(うめない)と変っている。 |
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