紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 580
五戸町浅水・下平〜十海塚
Hitosh
庚申塔、二十三夜塔 |
地蔵坂を登っていくと、左側に宝暦年間(1751〜64年)に建てられた庚申塔と 安政4年(1857年)に建てられた二十三夜塔がある。 庚申塔は江戸時代中期特有の青面金剛が刻まれ、飾りも豪華で賑やかであった。 |
旧奥州街道、浅水下平 |
旧奥州街道は、山沿いの緩やかな道となった。 右側には浅水川が並行して流れているところである。 地形図では果樹園となっているが、野菜畑のようであった。 |
旧奥州街道、浅水十海塚 |
浅水下平から小さな峠道を越えると、 浅水字十海塚(じゅうかいづか)地区に入る。 この十海塚は、気になり調べてみた。 大永7年(1527年)に常海和尚が、この地に常海寺という寺を建てる。 その常海が重海、十海と転訛してそのまま地名となったようだ。 |
旧奥州街道、十峰庵 |
峠道を登ると、視界が開けた。 右側に十峰庵と命名された、東屋があった。 この東屋の前には、「奥州街道をたずねて」と題した大きな説明板が設置されていた。 この道は、平安時代から都への献馬、貢物及びこの地方の産物の 輸送等の主要道路であった。 鎌倉時代には奥筋と呼ばれ、路次の主要地に宿駅を設けている。 幕府はこの道を軍用道路として利用するために、建長年間に、 時の執権北条時頼は路次の地頭に命じて、 道筋の路巾を広げ、路面の補修整備をさせた。 以後この道路は、開発の進展と共に、 武士や商人、旅人等人馬の往来が繁くなっていた。 江戸時代初期に、白河から三厩までの区間を奥州街道と呼び、 幕府勘定奉行の管理下に置かれ、そのところの領主に維持補修をさせていた。 慶長9年(1604年)、日本橋を起点とした一里ごとに塚を築造させ、 榎木を植えさせている。 五戸町では、佐野坂、鳥内板に今も一里塚は残されている。 |
五戸町浅水字十海塚、南小学校 |
十峰庵より右側を見下ろしたところにある、未だ新しい五戸町立の南小学校だ。 2012年度で、児童数37人とのことで、 通学区域は、大字の浅水、扇田、手倉橋となっている。 ここの住所は、五戸町浅水字十海塚である。 |
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