紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 591
五戸町・大学沢〜十和田市・米田


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五戸町


大学沢、名残の松

根岸八幡宮より街道に復帰し、北上すると、正面に大きな松ノ木が残されている。
この先で、国道4号線に合流するところだ。



国道4号線

国道4号線に入る。
江戸時代の旧奥州街道居はこの国道の右側であったようだが、
その痕跡は無かった。

左側の標識には、東京より653.1kmと書いてあった。
里程標を見ると、毎回であるが、良くここまで歩いてきたものだと一人悦に入っている。

正面の標識には、青森86km 十和田14kmと書いてある。
今夜の宿は十和田市に取ってあるので、未だ14km以上の道程だ。

左前方の建物は、川村彫刻所と書いてある。
ここの住所は、五戸町大学沢となっている。



十和田市

十和田市境

十和田市境である。
ここから五戸町大学沢から十和田市米田(まいた)と変るところだ。

この地名、米田は「まいた」とは読めなかった。

左側の標識には、「五千円札のふるさと」と大きく書かれてあった。

調べてみると、前の五千円札に刷られた肖像・新渡戸稲造(今は樋口一葉)の、
祖父と父が、荒地であった現在の十和田市(三本木原)の開拓に
成功させたことによるそうだ。

なお、十和田市は奥入瀬川上流、中流域を占める都市で、
昭和30年に三本木町、大深内(おおふかない)村、藤坂(ふじさか)村、
四和(しわ)村と合併し、市制を敷いている。



十和田市米田

十和田市に入ると、左側が大きく開けてきた。
地図によると、この先には牧場があったようだ。

十和田市は「駒の里」であり、
国道の看板には大きく「ようこそ駒の里へ」と書かれてあった。



法量大権現神社

街道左側の丘の上にある法量大権現神社。

この法量は、調べてみると、十和田市豊漁に鎮座する法量神社の末社のようだ。
法量は、熊野沢沿いを通る県道40号線(青森田代十和田線)沿いにある集落である

その鎮守である法量神社は、宝永5年(1708年)に創建されている。

この階段を登ってみると、拝殿の隣には、小さな社の境内社があった。
○前神社と扁額に書かれてあったが、○の字は読めなかった。



後藤川、上流側

さらに進むと、左側が開けた。
後藤川の上流方向で、左前方は一本松の集落のようだ。

後藤川は、十和田山(1054m)と戸来岳(1159m)の北東の谷を源流として、
十和田市で奥入瀬川に流入している川である。


(五戸町 大学沢、十和田市 米田)
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歩行略図
五戸町・五戸宿〜十和田市境〜伝法寺宿〜藤島



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