紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 620
東北町・家ノ下タ〜日本中央の碑
Hitosh
東北町、旧奥州街道 |
七戸町と東北町の境界にある森を抜けると、正面が開けてくる。 上北自動車学校があり、街道はここで右にカーブしている。 地名は東北町字家ノ下タ(いえのした)となっている。 |
家ノ下タ、旧街道 |
上北自動車学校の南側の道を東進すると、右手に三角屋根が見えてきた。 日本中央の碑保存館である。 |
日本中央の碑歴史公園 |
旧街道右側にある日本中央の碑歴史公園。 昭和24年に発見された、 真ん中に「日本中央」と刻まれた高さ1.5m、幅70cmの石碑を中心に 整備された歴史公園である。 ここの地名は東北町字家ノ下タ(いえのした)である。 |
日本中央の碑保存館 |
日本中央の碑保存館である。 昭和24年に川村種吉が発見してから、 長らく簡素な祠だけで雨曝しとなっていたのを、 平成7年に発見地近くである、この保存館を中心に歴史公園として整備された。 |
日本中央の碑 |
l保存館に入ると正面に日本中央の碑があった。 係り員に了解を得て撮影したものだ。 中央に大きく、「日本中央」と刻まれてあった。 それにしても不思議な石だ。 「壷の碑(いしぶみ)」は、坂上田村麻呂が弓筈で石に文字を記したと 伝えられる伝説の古碑だ。 長い間に、碑の所在は分からなくなり、 石文地区(東北町字石文)のどこかに埋まっているとの伝承が残されてきた。 明治9年の明治天皇巡幸の時、 前述の千曳神社境内を掘るなどして壷の碑を探したが発見されなかった。 昭和24年、石文地区湿地帯の雑木林の中でこの碑が見つかり、 これが「伝、壷の碑」ではないかと大騒ぎになった。 壷の碑は、古来多くの文人たちも関心を寄せ、 一時多賀城碑が壷の碑に比定されたことも有ったが、 古歌を見ると、多賀(宮城県)ではなく、東北地方北部にあった可能性が高い。 藤原清輔朝臣の 「石ぶみや つがろ(津軽)のをちにありときく えぞ世の中を思いはなれる」 西行の 「みちのくは 奥ゆかしくもおもほゆる 壷の石ぶみ外の浜風」等々。 しかし、この碑の最大の謎は、やはり大きく刻まれた文字「日本中央」である。 日本という国号が使われていない時代に、日本(本州)の最北端にあたる当地である。 さらに、この碑を刻んだという坂上田村麻呂はこの地まで遠征していない。 (後任の征夷大将軍・文屋錦麻呂はここまで足を運んでいる) 田村麻呂は、この先にある北海道や千島列島までを日本の領土とみなして、 ここが中央としたとの説もあるが、どうも疑わしい。 尤もらしいのは、日本は「ひのもと」と読み、 平安初期の文献によると東北地方一体を指す言葉として使われていたようだ。 従って、日本の中央は、 蝦夷征討軍が敵地の中央部分にあたる場所としたことが 妥当な解釈であろうか。 |
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