紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 630
野辺地町・馬門通〜鳥井平


Hitosh




野辺地町


野辺地川、河口

野辺地川に架かる野辺地橋より見た河口である。

奥羽山脈を源流として、枇杷野川、与田川、日本木川などの支流と合流して、
ここで陸奥湾に流入している。



鳥井平集落

野辺地川を渡ると、鳥井平の集落に入る。

この右手に入ったところに戊辰戦争史跡のあるところだ。

正面の店は、青森のほたて屋さん、潟}ルイチ横浜の看板がでていた。
マルイチ横浜は、ほたて全般を扱っているようだ。

青森のホタテは、北海道に次いで、全国第2位の生産量となっている。



戊辰戦争史跡

案内標識には、野辺地戦争戦死者墓所と書かれてあった。

戊辰戦争で東北地方の諸藩は、官軍に対抗して、
奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の思惑は一致せず、
秋田藩、弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えた。

明治元年9月、弘前藩の軍勢約180人が
突如南部領に侵攻した。

南部領の本道を通った一隊は、南部藩境の
馬門(まかど)宿に火を放ち野辺地村に迫った。

藩境の防備に当たっていた盛岡・八戸藩連合軍は、
これに応戦し銃撃した。

夜明けまで続いた戦いの後、弘前藩の軍勢は、
40余人の死傷者を出して敗走した。

野辺地戦争の翌年、弘前藩は、
戦死者27人の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てた。



弘前藩士墓碑

墓碑には、弘前藩銃卒 大川豊太郎利清、佐野佐吉芳成他、
計27人の名が刻まれてある。

官軍についた弘前藩の墓所で、
賊軍となった盛岡藩の墓碑は、ここには無かった。



鳥井平、旧街道

街道に復帰して、
鳥井平の集落を、国境の宿場町・馬門に向かう。


(野辺地町 馬門道 下御手洗瀬 鳥井平)
1206/1404

写真が一部表示されない場合は、「ページの更新」(F5キー)、又は「画像の追加」(右クリック)を行うと表示されます


前へ 目次 次へ


歩行略図
野辺地・松の木〜野辺地駅〜野辺地宿〜野辺地港〜津軽藩境〜平内町〜狩場沢駅



街道写真紀行


悠々人の日本写真紀行

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

Hitosh


inserted by FC2 system