紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 633
野辺地町〜平内町境
Hitosh
馬門御番所、高札 馬門番所に掲げられた高札で、特産品を他領へ持ち出すことが禁じられていた。 なお、実際の馬門番所はこの場所では無く、南東1kmのところにあった。 |
高札に書かれてあった内容は、 −−−−−−−−−− 覚 武具類くろがね類 紅花紫根黄連 蝋染油 錦麻からむし 箔椀同木地 銅鉛硫黄塩硝酸皮之類 男女 牛馬 右之通無手形他領へ出候事 堅ク被停止事若脇道通過者 於有之八可捕上 為御褒美其持料可枝下候者也 宝暦六年 織笠弾正 桂 和泉 東 中務 北 民部 −−−−−−−−−− |
南部津軽藩境塚 |
馬門番所の横から急な崖を下ると、 海岸べりにある南部津軽藩境塚(はんきょうづか)が見えてきた。 江戸期の旧街道は、高台にある馬門番所から急な坂道を下って、 海辺にある藩境塚より津軽領に入ったようだ。 古墳のように土で盛った大きなもので、南部藩側に2基、 そして対抗するように、津軽藩側にも2基作られている。 眼下に見えるのは、南部藩側の2基である。 |
平内町 |
津軽藩境塚 |
写真手前の小さな川(二本又川、境の川とも)を渡ると、 今度は津軽藩の藩境塚が二基並んで作られている。 川を挟んで、「従是東南盛岡領」、 「従是西北津軽本次郎領分」と書かれた木製の標識が2つ建っていた。 直径、底面にて約10m、高さ3.5mの藩境塚(はんきょうづか、通称四ッ森)は、 青森県の指定史跡となっている。 |
平内町 |
平内町・狩場沢 |
藩境塚より平内町の狩場沢の坂を上る。 旧街道は、崖の上であるが、藩境塚のある部分は、海岸ベリの道となっている。 前方に、リュックを背負った街道ウォーカーがいた。 声を掛けると、ネットで知り合った横浜のS氏であった。 同じように旧奥州街道を順番に歩いている人だ。 明日の夜、青森で再会することを約す。 |
菅江真澄歌碑 藩境塚から狩場沢の坂を上っていくと、右側に菅江真澄の歌碑が建っていた。 「あら波のよるきしこぼれさしながら にでらで花のかけやうつさん」と刻まれてある。 |
菅江真澄は、 宝暦4年(1754年)三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)生まれの 旅行家、博物学者、そして民俗学の先駆者だ。 信濃、東北、蝦夷地を遊歴し、その紀行を「真澄遊覧記」として残している。 真澄は1797年、弘前で開設されたばかりの藩校稽古館で、 薬事係りに任命された。 真澄の本草学の知識を利用し、弘前藩の薬草の自給自足を図る為であった。 しかし、2年後には盛岡藩の間者と疑われ解任されている。 その間に「岩城山物語」、「善知鳥物語」、「浪岡物語」等を著している。 弘前藩を追放された後は、秋田で30年間過ごしたようだ。 |
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