紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 681
青森市・104油川宿


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青森市

浄満寺

旧奥州街道104番目の宿場・油川宿入口付近に集められている
寺社の最後が、この浄満寺である。

一番油川宿中心部に近いにところにあり、津軽半島で最古の寺と言われている。

寺宝の円空作木彫釈迦牟尼如来坐像は青森市文化財に指定されている。
戦国時代の油川城主・奥瀬氏の菩提寺であった。

豪族奥瀬氏は、南部氏配下で、ここを拠点に外ヶ浜を治めていたが、
天正13年(1585年)、津軽為信(大浦為信)に追われて南部に去った。

浄満寺境内には、青森湊を開いた森山弥七郎の供養塔や、
本堂裏に天明3年(1783年)の飢饉で餓死した人々を埋葬した千人塚がある。

天明の飢饉では、津軽藩全体で約8万2千人が餓死したといわれ、
油川とその隣の後潟地区と合わせ、
全住民1万8600余人の3分の2が死亡したという。



大浜橋、天田内川

天田内川(あまだないがわ)に架かる大浜橋を渡る。

手元の地図では小浜橋となっているが、
橋の欄干には大浜橋と刻まれてあった。

油川は、以前は大浜と呼ばれ、
この辺の字名は今でも大浜となっている。
かつての油川宿の中心部であったようだ。

前述の浄満寺付近に、油川代官所があった。

また、享和2年(1802年)、沿岸測量でこの地を通った伊能忠敬は、
浄満寺近くの近江屋・平井津兵衛宅に2泊したという。



天田内川、上流側

大浜橋より、天田内川上流側を見た写真である。

天田内川は、
青森市西郡の魔ノ岳(まのだけ、474m)を源流とする川で、
ここ油川で陸奥湾に流入している。

左側の墓地は、浄満寺のものだ。
正面に見えるビルは、青森市立油川小学校である。
創立は明治10年とのことだ。



菊谷栄文学碑

天田内川べりにある菊谷栄文学碑。

「菊屋栄文学碑
 春の日暮れるまで 花の散るまで 日傘も二人 唄もふたりで」

と刻まれてあった。

菊谷栄は、明治35年東津軽郡油川村生まれで、
油川小学校を経て、青森中学校を卒業。
画家を目指して上京し、日本大学文学芸術学科を卒業。

エノケンこと榎本健一と知り合い、一座の舞台美術担当として活躍。
後、組織替えしたプペ・ダンサントの文芸部から菊田一夫が去り、
菊谷が脚本を担当するようになった。

エノケン劇団在籍7年間で、軽妙なタッチで、
風刺性のある傑作80編の音楽劇とショーを書き上げ、
日本を代表するレビュー作家として活躍した。

応召され、昭和12年華北戦線で戦死。
菊谷の霊は、明誓寺に眠っている。



西田酒造店

街道右側に、銘酒「田酒」、「喜久泉」で知られた西田酒造店。
明治11年創業の、青森市唯一の酒蔵である。

西田家は、油川後潟両組の大庄屋で、もともとは近江商人で、
北前船が上方から運んでくる綿や呉服などを商っていた。

油川は羽州街道との合流点でもあり、
弘前から青森への道筋であったため、豪商たちが.屋敷を構え、
北前船の船乗りたちのための船宿や飲食の店があった。

明和2年(1765年)の油川には、造り酒屋が11軒もあったという。


(青森市 油川・大浜)
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