紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 741
外ヶ浜町・三厩漁港〜厩石


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三厩漁港

正保2年(1645年)の津軽郡絵図には三厩湊が記されている。

寛文4年(1664年)に三厩湊に沖横目番所が置かれ、
物資の移出入の取り締まりと役銀の取り立てが行われていた。
主に材木(ヒバ等)の移出の取り締まりであった。

江戸時代の北海道(蝦夷地)への出航地の面影は無く、
今は三厩漁港として、沿岸と沖合漁業の定置網、刺網、釣りが中心で、
主要魚種は、マイカ、サメ、ヒラメ、ヤリイカ、コウナゴとのことだ。

なお、三厩漁業協同組合員は218人である。



三厩中浜集落

三厩漁港を抜けると、地名は三厩本町から三厩中浜と変わる。

中浜は古い集落で、漁師や船大工、商人の住居がメインで、
遊女屋もあったところである。



三厩、庚申塔三基

旧街道左側にある、庚申塔3基。

三厩、中浜集落の入口付近である。
津軽に入って、地蔵堂は集落ごとの辻にあったが、
庚申塔を目にするのは珍しかった。

背後の茶色のタンクは石油用である。
冬の寒さと積雪が凄いせいか、
大きな石油貯蔵用のタンクを備えている家が多かった。



三厩、厩石公園

右側に、三厩湾に面して厩石(まやいし)公園がある。
背後の大岩が厩石だ。

厩石公園には、大きく書かれた、
未だ新しい「三厩村地名発祥之地」碑と、
「松前街道終点之碑」が立っていた。

長かった、松前街道(旧奥州街道)の終点である。



厩石

奇岩、厩石である。

説明板によると、源義経は平泉では死なずに、ここまで逃げてきて、
ここから蝦夷に渡ったと伝えられている(義経北行伝説)。

岩手県から青森県にかけて、
今でも多くの義経所縁の地や逸話が残されている。

説明板によると、藤原秀衡の遺書、
「危難が迫ったら館に火をかけ、
自刃を装って遠く蝦夷が島へ渡るべし」の通りに
北を目指してこの地に辿り着いたという。

しかし、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで渡ることが出来なかったので、
義経は海岸の奇岩の上に座して、観世音を安置し、
三日三晩祈願すると、白髪の翁が現れ、
「三頭の龍馬を与えるから、これに乗って渡るがよい」
と言って姿を消した。

岩を降りると、岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まって、
義経は無事蝦夷が島に渡ることが出来た。

それから、この岩を厩石、
この地を三馬屋(三馬屋村、そして三厩村)と呼ぶようになった。


(外ヶ浜町三厩 本町 中浜)
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