紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 39
白河・向寺〜女石追分
Hitosh
向寺 |
水難殃死者供法塔 阿武隈川の田町大橋を渡ると、土手の右手に水難殃死者供養法塔があった。 殃(おう、よう)は災いの意である。横死と同じ意味で、思いがけない災難で水死した人を弔ったようだ。 |
聯芳寺 |
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向寺地区を進むと、左側山沿いに三社神社、 そして樹齢200年の枝垂れ桜で知られた聯芳寺(れんぽうじ)がある。 聯芳寺は、結城宗弘の伯父広綱が娘の菩提を弔う為に建立した寺と伝えられている。 境内には、福島藩十四人碑がある。 戊辰戦争で戦死した福島藩隊長池田邦知以下13人の慰霊碑である。 |
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]姫神社 |
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兵法家鬼一法眼の娘、皆鶴姫を祭る古社、](えな)姫神社である。 縁起によると、平治の乱で平清盛に敗れた源氏の棟梁源義朝の 遺臣である吉岡家3兄弟のうち、長兄の鬼一法眼は京都堀川に住み、 兵法家として中国伝来の兵法秘伝書を秘蔵していた。 源義経は鬼一法眼より、その秘伝書を入手したが平家の圧迫が激しく、 金売吉次と共に京都を脱出し、平泉の藤原秀衡のもとに向かった。 その義経を追って、鬼一法眼の娘の皆鶴姫がここまで辿り着いたが、 病となり息を引き取った。 村人はその行動に感激し、手厚く弔い社を建てたという。 ]姫神社の「]」とは、岩波の新漢語辞典によると、胎児を包んだ膜と胎盤の意とある。 皆鶴姫は妊娠していたのであろうか。 「えな」というと、中山道の恵那市(大井宿)がある。 こちらは天照大神の胞衣(えな)を納めた地であったと言う。 |
女石 |
仙台藩戊辰戦役碑 ここ女石も、戊辰戦争で東軍の最前線基地として激戦が展開された。その時に戦死した仙台藩士150余名の供養碑が、女石追分の近くにあった。 |
女石追分 |
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女石の追分で、幕府の道中奉行管轄の奥州道中の終点である。 ここで、奥州街道は右で、左は会津街道となる。 かつては切り通しでは無く、10m程高い山腹を通っていた様だ。 写真を撮った後、気が付いたが右端の女石バス停の前に、街道歩きの高年の夫婦がいた。 芦野宿から何度か街道でお会いした甲府のご夫婦で、 無事奥州道中を踏破し、ここからバスで白河駅に戻るとのこと。 幕府管轄の四街道を無事踏破し、次は最後の甲州街道に挑むという。 ここでご夫妻に別れを告げ、右側の仙台・松前道(旧奥州街道)に入る。 ここからは、奥州各藩が管轄する街道となり、次の宿場は根田宿となる。 |
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