紀行写真集


旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 68

須賀川城跡〜神炊館神社



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須賀川宿



須賀川城跡、二階堂神社

ホテルを朝の6:40に出発し、先ず訪れたのが諏訪町にある須賀川城跡である。

須賀川城の本丸跡は、現在二階堂神社となっている。
須賀川城主の二階堂氏は、鎌倉幕府政所執事 二階堂氏の一族で、
南北町動乱の時、領地のあった須賀川に下向し、土着した名族である。

戦国時代になると、米沢の伊達氏、会津の芦名氏の強敵に囲まれており、
家名の存続が厳しい状況であったため、二階堂盛義は一子盛隆を芦名の養子に出した。
しかし本人が天正9年(1581年)に死去し、嫡子がいなくなった。

その為、二階堂氏は、伊達政宗の伯母である盛義の妻、大乗院が城主の座についていた。
そこへ、奥州の伊達政宗が攻め込み、天正17年(1589年)、須賀川城を陥落させた。

負けた天乗院は、正宗の庇護を受けず、岩城家に養子に行っている兄親隆を頼っている。

亜欧堂田膳顕彰碑
  須賀川市の少し西側に、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)生誕之地と刻まれた石碑がある。
  寛永元年(1748年)、須賀川宿の染物屋に生まれ、当時の白河藩主松平定信に見出され、谷文晁の門下となり、一時銅版画の先駆者である司馬江漢に弟子入りした。そしてその技法を応用して、草創期の日本の銅版画を完成させた人物である。文政5年(1822年)歿。  

この碑の前の通りは、田善通りと呼ばれている。

写真の左奥に長松院のあるところである。
芭蕉の逗留先であった相楽等窮の墓がある寺だ。

長松院の裏手には、僅かではあるが、今でも須賀川城の土塁と空堀跡が残されている。



神炊館神社

神炊館(おたきや)神社、主祭神は建美依米命で、成務天皇の御代、
初代岩背国国造として当地に赴任した。

着任すると、社檀を築き、収穫された新穀を炊いて、天神地祇を捧げて、
政治の成功を祈願した。
この故事にちなんで、社檀様(しゃだんさま)と呼ばれたが、
その後社殿が築かれ、神炊館神社と名付けられた由。

室町時代に、須賀川城主であった二階堂為氏が、信州諏訪神を合祀したことから、
「お諏訪様」とも呼ばれていた。

江戸時代に朝廷より「諏訪大明神」として、正一位の位を授かり、
諏訪大明神が神号として用いられたが、明治11年に、
現在の社名である神炊館神社に戻っている。

須賀川の総鎮守で、松尾芭蕉も訪れている古社である。
なお、この辺の地名は今も諏訪町となっている。


神炊館神社参道にある商家である。

富士防災資材株式会社の看板が架かっていた。
消防設備、用品、保守点検を行っているようだ。

須賀川には、今でも古くからの建物が何軒か残されている。


普應寺
  神炊館神社の北側にある普應(ふおう)寺。観応元年(1350年)、白河城主結城親朝が亡父宗廣の冥福を祈る為に建立した寺。
  ここで、再び旧街道に戻る。


(福島県須賀川市中町、諏訪町)
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