紀行写真集


旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 77

郡山・安積永盛駅〜音無川



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安積町


阿武隈川

旧奥州街道の笹川宿は、この阿武隈川沿いに設けられた宿場だ。
前方の橋は、永徳橋である。

阿武隈川は、福島県中南部の那須火山群の甲子山(かつしざん、1549m)を源流とし、
須賀川、郡山、二本松、福島市を貫流して、宮城県亘理(わたり)町荒浜で太平洋に注ぐ、
東北第2の大河である。

気持ちよい日差しの中、この土手で、持参の弁当で昼食をとる。

JR安積永盛駅
  旧街道に復帰すると、左側にJR安積永盛(あさかながもり)駅がある。東北本線と水郡線が乗り入れている。水郡線は当駅が終点であるが、全列車が東北本線の次の郡山駅を発着している。
  明治41年に開業した当時は笹川駅であったが、昭和6年に現駅名となっている。旧宿場名の笹川の方が良いと思うがどうであろうか。


音無川(現笹原川)

笹川宿を抜け、今は笹原川となっているが、かつての音無川を渡ると
安積町日出山(ひでのやま)地区に入る。
この川に架かっていた古代の耳後(ささやき)橋は、この写真奥方向にあった。

写真は現在の耳後橋より上流を見たものである。

天平4年(732年)、奈良より葛城王が按察使(あぜち)として陸奥の国に下向の際、
片平郷の国司、祇承が3年の年貢を怠っていたので、王の怒りに触れた。
その時、見目麗しい春姫が「安積山影さえ見ゆる・・・」と詠み、
歓待に務めたので、王の怒りが解けたという。

王が都に還る時、この地まで見送りにきた春姫と、橋の上で別れを惜しみ、何やらささやいたが、里人には何も聞こえず、川の流れも一瞬止まったといわれ、
後世、この川を「音無川」、橋を「耳後橋」と称するようになったとか。

なお、按察使は令外官の一つで、719年に新設された地方行政官の監督官である。
耳後橋は、このエピソードとともに、歌枕の地となっていた。

ささやき(耳語)公園
  音無川を渡ると、現在の耳後橋の右側袂に、ささやき公園が出来ている。
  日出山町内会と安積町郷土史研究会、日出山町財産管理運営会により、音無川と耳後橋の謂れが刻まれた大きな石碑が建てられていた。
  背後の高架は東北新幹線である。


安積町日出山

耳後橋を渡り、旧奥州街道に復帰する。

この先が、旧奥州街道39番目の宿場・日出山宿となるが、
家並みが続いており、その境界は判然としない。

ここも赤瓦の家並みが続くところであった。



(福島県郡山市安積町笹川、日出山)
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歩行略図
安積永盛駅〜39日出山宿〜40小原田宿〜41郡山宿〜逢瀬川



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