紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 91
JR日和田駅〜西方寺
Hitosh
JR日和田駅 |
東京駅発7:04の新幹線で郡山まで来て、東北本線に乗換え、 前回街道歩きを中断した日和田駅に着いたのが8:44であった。 今日も快晴、徒歩の旅の出発である。 |
蛇骨地蔵堂 |
駅前どおりを直進し、旧奥州街道に復帰する。 街道に入り、すぐ左手にあるのが、この蛇骨地蔵堂である。 養老7年(723年)に開山、現在の建物は享保3年(1718年)に再建されたもの。 当初は東勝寺(とうしょうじ)の祈願堂であったが、幕末に廃寺となったため、 西方寺に移されている。 修復中であるが、この建物は禅宗洋式を基調として、柱や架構も雄大で、 使用部材も良いものを使用しているとのこと。 郡山市随一の仏堂建築で、市の重要文化財に指定されている。 この蛇骨地蔵の由来は、父である安積領主の安積左衛門と母が殺された上、 安積沼に投げ込まれた菖蒲姫が、大蛇に変身して下手人の一族を滅ぼした。 しかし、よほど恨みが深かったとみえ、それで満足せず、 この地一帯の民百姓にまで祟り続けた。 人々は大蛇を祀り、大蛇の要求により毎年一人、 くじ引きで決められた16歳の娘を人身御供に差し出した。 33番目のとき、見かねた大和国の長者の娘、佐世姫が身代わりとなって、 大蛇の生贄棚に身を置き、法華経・堤婆達品(だいぼたつたぼん)を唱えると、 菖蒲姫はやっと成仏した。 その時、菖蒲姫の願いで、佐世姫は蛇の骨で5尺7寸の地蔵尊を彫ったとのこと。 今は秘仏で拝観できないが、地蔵の材料は犀の角ではないかといわれている。 なお、蛇骨堂の裏側には、人身御供にされた32人の娘と佐世姫の霊を慰めるため、 33の観音像が安置されている。 さて、話は変わるが、写真左手の松ノ木は、西方寺の笠松として 郡山市の天然記念物に指定されている。 樹齢250年の見事な笠松である。 |
日和田のイチイ 蛇骨堂の参道にあるイチイ(常緑針葉樹)で、こちらは市では無く、福島県の天然記念物に指定されている。 この木は、この辺が森林地帯であったころの遺物とみられ、近くには樹齢650年の年輪を数える切り株が残されている。 |
日和田・馬頭観世音群 |
蛇骨地蔵堂の参道にある、大きな馬頭観世音である。 多くの馬頭観世音がここに集められていた。 日和田宿は坂の途中に連なる宿場であるので、実際の街道筋には多くの馬頭観世音が 建っていた事であろう。 |
西方寺 |
そして、宿場の北の出口付近に西方寺(さいほうじ)がある。 永世年間(1504〜21年)の開基と伝えられ、当初は現在地より1km西方にあったが、 享保年間(1716〜36年)に現在地に移ったようだ。 ここの木造大日如来坐像は、福島県指定の重要文化財となっている。 次は万葉集でも有名な歌枕の地・安積山を経て、 旧奥州街道44番目の宿場・高倉宿へ向かう。 |
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