紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 98
本宮・阿武隈川〜本宮観音堂
Hitosh
阿武隈川/本宮 |
旧街道は阿武隈川沿いの道となる。 写真は上の橋下流より撮影したものだ。 川岸に、 「ゆくすゑに あふくま川の なかりせば いかにかせまし けふの別れを」 新古今和歌集。高階経重朝臣(たかしな つねしげ あそん)と書かれた大きな説明板があった。 本宮町教育委員会、本宮観光協会、建設省が建てたものだ。 正面の町並みが旧奥州街道45番目の宿場・本宮宿で、現在の本宮市の中心部である。 |
本宮観音堂 |
街道右手にある本宮観音堂。 かつての奥州街道は、この観音堂の裏手側で、観音堂も後ろ(東側)を向いていたが、 明治になり、境内の一部を削り、国道(現県道須賀川二本松線)が反対側に作られたので、 それに伴い、こちら側(西向き)に向きを変えられたとのこと。 このお堂は、江戸時代の元禄12年(1699年)に建て替えられたものである。 右端の石柱には、安達三十三観音第三十番札所、 仙道三十三観音第四番札所と刻まれてあった。 |
小沼貞長公霊碑 境内にある小沼貞永公霊碑。貞長は田村郡船引城主であったが、田村氏が没落したのち浪人となり、慶長5年(1600年)57歳の年に本宮に移住。 若松城主上杉景勝から荒地250石を与えられ、この地に新しい町の建設を計画した。伊達政宗が本宮通過の際、新しい町の建設の話をしたら、政宗は賛同し、永楽銭200貫を与えたという。 これをもとに町づくりを行い、慶長13年(1608年)に新しい町(南町)を完成させた。まさに、本宮宿・南町の産みの親であったようだ。 |
|
太郎丸観音堂供養塔 厨子を形どるような枠をとり、半肉彫りで、中央に本尊阿弥陀仏を、右に合掌する勢至菩薩、左に蓮華を持った観音菩薩を踏割(ふみわり)蓮華の上に立たせている「浮彫阿弥陀三尊来迎塔婆」である。 鎌倉時代中期以降ころのもので、本宮市指定有形文化財に指定されている。 |
|
馬の墓 境内の片隅に、「馬? 珎天 青毛墓 セハ人 近藤吉五郎 石川座 曲馬連中」と彫られた墓碑があった(写真左端)。 馬術の曲芸や軽業などの興行をする旅芸人一座の馬が亡くなり、ここに供養塔を建てたようだ。 |
前へ | 目次 | 次へ |
TOP | 北海道 | 東 北 | 関 東 | 中 部 | 近 畿 | 中国四国 | 九州他 |