紀行写真集


旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 99

45本宮宿・薬師堂〜JR本宮駅前




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45本宮宿

薬師堂
  本宮宿入口にある薬師堂である。上の木戸(南枡形)が、文政7年(1824年)に、この薬師堂の前に設けられたが、枡形跡も消え、今はその面影は無かった。
  このお堂は、誓伝寺薬師堂で、額には薬師如来の詳名である薬師瑠璃光如来から、瑠璃光山と金文字で書かれてあった。
石碑、石塔群
  右の石碑は美正貫一郎建臣の碑である。高知の医師の息子して生まれ、美作家を継いだ。慶應4年(1869年)の伏見の変に参加、以来官軍の下で活躍してきたが、ここ本宮の阿武隈川を渡るとき、敵の集中射撃にあい、急流に押し流され行方知れずで殉難した。その鎮魂碑である。  

中央は、九思堂小泉尚賢先生の碑。本宮生まれの医師で、のち二本松藩の侍医となった。
書道が得意で多くの弟子がいたようだ。
天保14年(1843年)死去し、二本松の善性寺に葬られたが、遠く墓参が容易で無いので、
弟子達がここに石碑を建て先生を偲んだという。

左は、伊東太乙(たいつ)の碑で、本宮生まれの医師で、漢詩、和歌、連歌、俳句にも
優れた文化人で、居宅には風流な客人が絶えなかったという。
文化8年(1811年)死去したとある。

境内には、その他多くの石碑、石塔が集められてあった。
勢至塔
  左側には勢至塔と刻まれている。日本で勢至菩薩が単独で信仰の対象になることは極めて稀とのことである。
  右側は読めなかったが同じく阿弥陀如来の脇侍である観音菩薩であろうか。


45本宮宿

奥州街道45番目の宿場・本宮宿の南の入口付近である。

本宮宿は、この先の阿武隈川支流である安達太良川を挟んで、
江戸側(南側)の上町、中条、下町を南町、そして川の北側の荒町、中町、大町を
北町と呼んでいた。

本宮宿は須賀川宿とともに、現福島県内では屈指の賑わいを見せた宿場であった。
天保9年(1838年9で、旅籠30、茶屋12、銭湯6、酒屋12軒もあった。
また、飯盛り女の多い宿場としても知られていた。



本宮宿中心街

本宮宿南町の中心部(本宮中条)である。

南町の本陣・検断、問屋は天保2年(1645年)以降は、
この先左側にある原瀬家(現成田屋中条店)がほぼ務めていた。

寛永6年(1629年)で南町の家数は99戸であった。
なお、北町は112戸であるから、安達太良川を挟んで、本宮宿はほぼ2分されていたようだ。
享保年間(1716〜36年)で、南町162、北町155軒と競うように発展している。

写真の本宮郵便局の開設は古く、明治5年とのことであった。



本宮駅前通り

旧街道より、JR本宮駅前通りを見た写真である。
この先に本宮駅がある。開業は明治20年とあるから、歴史のある駅だ。

歩道が洒落たレンガ敷きとなり、電柱に駅前ふれあい通りと書かれてあった。



(福島県本宮市本宮)
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歩行略図
安積山〜44高倉宿〜45本宮宿〜JR本宮駅



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