紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 150
桑折・産ヶ沢川
Hitosh
阿武隈高地・霊山 |
右側に阿武隈高地が見える。 ピークは霊山(りょうぜん、825m)で、左に古霊山(783m)、窓ノ倉山(674m)、 松坂峠(480m)、羽山(458m)と続いている。 霊山は 霊山(825m)は、インドの霊鷲山(りょうじゅうせん)に因んで、 慈覚大師(円仁、えんにん)が名付けたとの事である。 南北朝時代の末期には宇都峰山と共に、東北における南朝側の拠点でもあった。 今はこの辺一帯は、霊山県立自然公園に指定されている。 手前に広がる町は保原である。 同僚の実家があり、仲間で泊まったことがある。 付近一帯はリンゴ園が広がり、5月の連休頃はリンゴの白い花が真っ盛りとなる。 ここで驚いたのは中通りの習慣という歓待を受けた。 今でも強烈に覚えているのは、一人一人の目の前に酒の杯が何個も並べられた事だ。 飲みきれずに、酌を受けられないのは失礼と云うことで、次の杯で酌を受けるのである。 飲みきれずに置いておくと、さらに次の杯にと云うことになる。 もとより、酒は嫌いでは無かったから、ついつい飲み過ぎてしまった。 この習慣は、会津や浜通りでは経験したことが無かった。 |
産ヶ沢橋 |
産ヶ沢(うぶがさわ)川に架かる産ヶ沢橋が見えてきた。 右前方の集落が旧奥州街道53番目の宿場・桑折宿である。 なお、近世以前の桑折宿は、この産ヶ沢川の手前にあり、 元宿、中宿、新宿等の字名が今も残っている。 左の山塊は桑折宿の西側に連なる平沢山(432m)、七ツ森(591m)、黒山(595m)、 そして銀山で有名であった半田山(863m)である。 半田銀山は、文政年間(1818〜30年)には、佐渡・相川、但馬・生野と共に、 三大銀山と呼ばれていた。最盛期には8万人もいたというから凄い。 銀の他に鈴や鉛を産出し、溶接の「半田付け」の半田はこの銀山名から来ている。 |
産ヶ沢側下流側 |
産ヶ沢川の下流側である。 この川の上流部(半田・万正寺地区)に、「産ヶ沢ホタル自然公園」が出来ている。 ピークには一晩で4000匹を越えるという。 産ヶ沢川は半田山(863m)の北麓を源流とする川で、桑折宿の西側を流れ、 阿武隈川に流入している。 上流には藤倉ダムや、桑折町振興公社が営む桑折温泉「うぶかの郷」が出来ている。 |
寛延三義民顕彰碑 橋を渡ると右側に寛延三義民顕彰碑がある。寛延2年(1749年)の凶作時に、幕領桑折代官神山三郎左衛門の施政に抵抗して起こした寛延の大一揆の首謀者として、斎藤彦内、猪狩源七、蓬田半左衛門の3名がここで処刑された。 この一揆の顛末は、明治40年の朝日新聞連載小説、半井桃水作「天狗廻状」で一躍有名になっている。 |
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つつじヶ岡、大五輪遺跡 街道か300m左に入ったところに、つつじヶ岡遺跡、大五輪(おごりん)遺跡跡、伊達氏の始祖伊達朝宗の墓所がある。 つつじヶ岡遺跡には戦国時代から続く菅原神社(天満神社)があり、初期の伊達家所縁の神社であった。 また、大五輪遺跡は戦国時代に満勝寺を開山した初代の住職の廟所と伝えられれている。共に桑折町文化財・史蹟に指定されている。 |
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