紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 176

白石・斎川・田村神社




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白石・斎川


田村神社、甲冑堂入口

鐙摺(あぶみすり)坂を下って行くと、右側に田村神社がある。

入口に「甲冑堂、源義経の家臣継信・忠信の妻、楓・初音の像」と書かれた
大きな案内標識があり驚いた。

その先の赤い標識(写真中央)には「奥の細道」と書かれてあった。



田村神社

田村神社は征夷大将軍坂上田村麻呂を祀った神社である。

9世紀の始め頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた坂上田村麻呂は、
この地方にはびこる悪路王や、青頭・赤頭など鬼形の者たち(山賊)に苦しめられている
村人たちのことを知り、悪者退治をした。

村人はその恩徳を慕って祀ったのが田村神社の始まりと伝承されている。
また、その時田村麻呂が身体や武器を清めた川を禊(みそぎ)の川、
斎川と言うようになった。

なお拝殿は明治8年に放火で焼失した為、明治12年に再建されたものだ。


甲冑堂
  田村神社境内にある甲冑堂(六角堂)には、義経の家臣佐藤継信・忠信兄弟の妻楓・初音の甲冑をおびた木造が納められている。
  これは、継信・忠信の妻が夫に代わり、凱旋装束して老母を慰めたという故事に因んで安置されたもので、江戸時代から奥州名所の一つとして知られていた。
  田村神社と共に焼失したが、堂も木像も再建されている。
桃隣句碑
  境内にある天野桃隣(とうりん)の句碑
  「軍めく 二人の嫁や 花あやめ」と刻まれてあった。
  桃隣は江戸時代の俳人(享保4年歿、1719年)で、芭蕉の縁戚の人のようだ。芭蕉没後、「奥の細道」の後を辿り「陸奥衛」を書いている。
  「白桃や 雫もおちず 水の色」他多くの句が残されている。


鬼ずるす石

この岩倉山は名前の如く、至るところに岩の露出が見られるが、
その岩の一つに別の岩が重なっていて、人の力で動かすことが出来、
さながら大きな石臼のようであった。

昔、この付近の岩窟に鬼形をした者が住んでおり、村人や旅人を捕らえては、
この石臼に入れ、ひき砕いて喰らったという伝説より、「鬼ずるす石」と呼ばれるようになった。
また人を剥いだ沢を人剥沢、人喰沢と呼んでいた。

この鬼形をした者を退治したのが前述の田村麻呂と伝承されている。



(宮城県白石市斎川)
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