紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 196

大河原町・白石川〜61大河原宿




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大河原町

一目千本桜/白石川


奥州街道61番目の宿場・大河原宿の入口のところから、すぐ近くの白石川に出てみる。
江戸時代には渡しのあったところである。

日曜日の今日は、車と人出が凄かった。
ここは宮城県で唯一日本さくら名所百選に選ばれている
一目(ひとめ)千本桜の中心部で、ちょうど満開であった。

蔵王連峰を源流とする白石川沿いに、上流の金ヶ瀬地区から
隣の柴田町船岡地区まで、約8km、1200本の桜並木である。

一目千本桜というから、一目で千本の桜が見えるところと思っていたが、
実際は奈良の吉野山が平安時代より「一目千本」と呼ばれていたことに肖って
名付けられたようだ。

桜の開花期にはJR東北本線は、この並木沿いを徐行運転している。
並木のすぐ傍(写真の土手の裏側)を走っているので、実に見事な眺めであった。



尾形橋/白石川

白石川を下ると、目の前に尾形橋がある。
この橋を渡るとJR東北本線の大河原駅があるところだ。
町の中心部であるかつての大河原宿とは白石川を挟んで反対側となっている。

右の小高い丘は、館山(136m)で船岡城のあったところだ。
山本周五郎の「樅の木は残った」(伊達騒動)の原田甲斐宗輔(むねすけ)の
館のあったところで、麓には山本周五郎の文学碑が建っている。

原田氏改易の後は、原田甲斐宗輔に斬殺された柴田外記の子宗意(むねとも)が
入封し、明治維新まで代々継承した。
二の丸跡にはその原田甲斐と、柴田外記の供養塔が建っている。

頂上の本丸跡には平和観音が建立されている(写真の白い塔のようなもの)。

左の低い山は韮神山(94m)である。
この辺一帯は仙台平野への入口付近の要衝で、奥州合戦で源頼朝軍は
ここを通って仙台平野に攻め込んだという。

激戦地で、韮神山に陣取った藤原方の守将の一人照井太郎が戦死したと伝えられている。



61大河原宿

白石川から宿場入口に戻る。

写真右の赤い屋根の建物は、宿場入口にある如意輪観音堂だ。
元禄年間(1688〜1704年)、大河原宿の大泉源十郎が勧請したのが始まりで、
その後本尊が盗難にあったので、隣地で旅籠を営んでいた大庭兵七が
新たに本尊を安置したと説明にあった。

また、ここは大河原宿の西の入口にあたり、白石川の渡しのあるところでもあり、
境内は旅人の小休所となっていた。

なお、大河原は多くの川が合流する(逢う)原の意味で、
逢河原が大河原と転訛したとのこと。


石塔群
  如意輪観音堂の裏手には、大きな馬頭観世音や山神、市神等が多数祀ってあった。
  今日はここで旧街道歩きを中断して、今来た街道を戻り、街道に面したラドン温泉の看板を掲げた旅館(大河原町字南街道下)に宿泊する。
大河原温泉
  宿泊した大河原温泉旅館・ぶんか荘の正面である。旅装を解いて、熱すぎるくらいのラドン温泉に入った。身も心も休まる一時である。
  そして、熱燗をちびりちびり飲みながらの夕餉であった。手ごろな値段であるが、料理が旨かった。


(宮城県柴田郡大河原町西浦、中河原、南街道下)
1004/1010

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歩行略図
宮宿〜金ヶ瀬宿〜大河原宿〜荒川・韮神橋



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