紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 235

仙台城本丸跡



Hitosh



仙台市青葉区


仙台城本丸跡

本丸詰門(つめのもん)址から階段を登っていくと本丸跡に着く。
広く、見晴らしの良いところである。
本丸だけで東西243m、南北265mという広さだ。

仙台城本丸は慶長5年(1600年)に「縄張り始め」が行なわれ、政宗は普請に着手してから
3ヶ月後に、本丸の壁土もつけない状態から入城している。

1603年になり略完成したが、大広間が完成したのは1610年で、
11年に及ぶ大工事であった。

本丸には計4基の三重櫓と、一基の二重櫓、多門櫓が聳えていたが、天守閣はなかった。



伊達政宗馬上像

本丸跡にある、伊達政宗の馬上像である。

政宗は永禄10年(1567年)、16代輝宗と山形城主最上義守の娘義姫との間に生まれ、
幼名を梵天丸と言った。幼い時に疱瘡を患い片目を失っている。

11歳で元服し藤次郎政宗と称し、13歳で三春城主田村清顕の娘愛姫と婚姻、
15歳で初陣、17歳で家督を相続している。

関ヶ原の戦いの後は、仙台に居城を移し、仙台城下町、北上川改修、江戸廻米など
領国支配に力を注ぎ、現在の仙台の基礎を作った武将である。

蛇足であるが、調査によると政宗の身長159cm、血液はB型と判明しているとのこと。



仙台城下

本丸跡より現在の仙台市街を見下ろした写真である。

城も町も出来る前に、政宗が始めて青葉山に立ち眼下の原野を眺望したときの
心境を詠んだとされる歌が残されている。

「入りそめて 国ゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ」


なお、本丸の地は仙台七崎の一つ青葉ヶ崎で
仙台城の雅称を青葉城と呼ぶのはこのためである。


昭忠塔
  本丸址にある高さ20mの昭忠塔で頂上の鳶の像は幅が6.7mだ。
  西南の役、京城事変、日清戦争等で戦死した東北地方の将兵の慰霊等で明治35年に建てられたものである。
宮城護国神社
  本丸の中心部にある護国神社。日清戦争後の明治31年に組織された昭忠会を母体として、明治37年に現在地に招魂社を建立し、大日本帝国陸軍第二師団管下(宮城、福島、新潟県と山形県の一部))の戦死者を祀ったのが始まりで、昭和14年に宮城県護国神社と改称されている。

(宮城県仙台市青葉区青葉山)
1005/1101

写真が一部表示されない場合は、「ページの更新」(F5キー)、又は「画像の追加」(右クリック)を行うと表示されます


前へ 目次 次へ


歩行略図
仙台城下・芭蕉の辻〜広瀬川〜仙台城跡



街道写真紀行


悠々人の日本写真紀行

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

Hitosh


inserted by FC2 system