紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 257

富谷町・70富谷宿


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富谷町


富谷宿入口

正面に熊野神社が見えてきた。

奥州街道70番目の宿場・富谷(とみや)宿の入口だ。
宿場は、熊野神社の前を直角に右に曲がったところである。



富谷・熊野神社

平安末期より熊野詣でが盛んになり、東北地方にも熊野神社が
勧請されるようになった。

富谷の熊野神社の勧請年月は不明であるが、伝承によると、
現在地より東方に鎮座していたようだ。

元和4年(1618年)、伊達政宗の命により富谷宿を開設した折に、
現在地に移転したと伝えられている。

祭神は熊野夫須美命(くまのふすみのみこと)、イザナギ命、イザナミノ命である。
明治41年に日吉神社、雷光神社が合祀されている。



70富谷宿町並

熊野神社の前を右に曲がると、かつての富谷宿の町並みが広がっている。

富谷宿は、富谷新町宿とも呼ばれ、元和4年(1618年)、伊達政宗により町場とされた。
富谷村の中に造られた新しい町ということで新町・富谷町であった。

当初は、北隣の宿場吉岡が馬継ぎ役を務めていたが、
元和6年(1620年)に富谷は宿駅として独立した。

検断や馬継ぎなどの役には、前領主である黒川家の家臣が任命されたという。


恋路の坂
  街道右側に恋路の坂と名付けられた細い坂道がある。この坂を上ると、今は小さな茶畑であるが、往時は茶の名産地であった。
  坂名の謂れは、女流歌人・原亜左緒(はらあさお)と恋仲になった石原純(東北帝国大学教授)が人目を避けて富ヶ岡公園に通った坂道とか。
  洒落れた常夜灯には「右中宿茶畑、富ヶ岡行公園」、そして「奥州路 恋路の坂や 茶の香り」と書かれてあった。  

仙台・芭蕉の辻から北の奥州街道を奥道中とも言うが、
それぞれの宿駅を歌に詠みこんだ「奥道中歌」が面白い。

仙台の本屋伊勢屋半兵衛が、文政2年(1819年)に「文政新刻奥道中歌」として
出版したものだ。

仙台の芭蕉の辻のある国分町から蝦夷・松前までを順番に詠みこんでいる。

 ♪ 「国分」の町より此処へ「七北田」よ、「富谷」の茶呑んで「吉岡」
   寒いとて焚かれぬものは「三本木」、雪の「古川」「荒谷」冷たや

   思いきり日は「高清水」宿取りの、杖「築館(つきだて)」て道急ぐとは
   あれ「宮野」「沢辺」の蛍草むらに、鳴く鈴虫の声は「金成(かんなり)」

   噂する人に癖「有壁」に耳、口のあけたて「一ノ関」なり ・・・・」

と続く歌である。歌にも詠まれている通り、富谷は茶の名産地であった。



富谷宿本陣跡

街道左側に、富谷宿の本陣跡があった。

「安永風土記」によれば、旧領主黒川氏の家臣であった内ヶ崎筑後(織部)が、
伊達政宗により取り立てられ、この宿場を整備し本陣と検断を務めた。
また、札場もここにあった。

家業は寛文元年(1661年)、2代目作右衛門が創業した内ヶ崎酒造店で、
今も営業している。地酒「鳳陽」は評判とのこと。



(宮城県富谷町富谷字町)
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歩行略図
富谷町熊谷〜富谷宿〜志戸田



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