紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 278
大崎・73古川宿
Hitosh
プラザホテル古川 朝5時半に起床する。このホテルは朝食が早朝の6:30からであるので街道歩きには助かる。大勢の宿泊客が朝一番で食事を取っていた。 ホテルを出ると、昨夜の大雨が嘘のように見事に晴れ上がっていた。 |
大崎市役所 古川宿三日町から旧街道に復帰する。写真は、三日町から七日町に入るところにある大崎市役所である。 |
この写真の奥にある古川第一小学校は、旧古川城跡に建てられた小学校である。 古川城は、中世、大崎氏の家臣の古川氏や木村氏が居城としていた。 その後は伊達氏の家臣鈴木元信がこの城を預かったが、 没後は伊達氏直轄の城になっている。 なお、市役所と古川第一小学校の間を流れている細い川が 歌枕にもなっている緒絶川だ。 古川市街を南北に流れていた江合川の流路が、7世紀頃に東西に変わり、 残された川が「玉の緒(いのち)が絶えた川」として、「緒絶川(おだえがわ)」と 呼ばれるようになったとのこと。 |
73古川宿七日町 |
古川宿の三日町から直角に右折し、七日町に入る。 奥州街道73番目の宿場・古川宿は、三日町、七日町、そして十日町よりなっている。 ここ七日町が宿場の中心で、本陣や、御仮屋(御旅所)、外人屋などもあったようだ。 写真右側の商店街は、旧宿場らしく一様に間口が狭く、奥行のある家並みとなっている。 古川宿は、大崎平野の中心に位置し、古代には 多賀城の前線軍事拠点である玉造軍団が置かれてあった。 中世には大崎氏の拠点であった。 大崎氏は、室町時代、足利尊氏によって奥州総奉行に任じられた斯波家兼に始まる。 家兼は大崎地方6郡を領して、大崎氏を名乗り、感応2年(1351年)に名生城を築城。 以後240年にわたりこの地を治めていた名家であった。 近世の古川宿は、旧古川城下町を整備し宿場としたものだ。 文化年間(1804〜18年)の家数は約100軒であった。 |
十日町交差点 十日町の交差点で、旧道はここで左折となる。 |
古川駅方面 |
十日町交差点より、東側見た写真である。 この先にJRの古川駅がある。 昨夜の大雨の後が路面に残り、朝日に反射していた。 |
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