紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 366

奥州市・水沢公園



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奥州市・水沢


水沢公園

常盤水路に架かる橋を渡り、段丘崖の急坂を上がると、広大な水沢公園となる。
園内には、500本を越える桜が植えられ、特に樹齢300年のヒガンサクラの古木の群生は
岩手県の天然記念物に指定されている。

その他、野球場、陸上競技場、テニスコート、体育館があり、
水沢出身の蘭学者、高野長英記念館も建てられている。

この公園は、江戸時代までは塩竈神社と愛宕社があったところで、水沢の大火で消失。
明治11年、戸長小岩昌や辻山義直等の提唱で公園化された。

造園は、美濃国安八郡結村生まれの蓑虫山人(みのむしさんじん)が行なった。
蓑虫山人は、旅絵師で造園家でもあったようだ。



弔魂碑
  園内にある戊辰戦争の弔魂碑。慶応4年(1868年)6月、水沢藩から白河に出陣し、石切山で亡くなった17人を悼み、水沢藩留守家28代景福が明治27年に建立したもの。
芭蕉句碑
  安永4年(1775年)に建てられた芭蕉句碑。元禄10年(1697)に出された句集「炭俵」の中の一句
  「傘でおし 分見たる やなぎかな」と刻んである。
  夏草庵と二十四庵社中が協力して建てた句碑で、もと水沢宿柳町にあったものを移したものだ。
後藤新平像
  後藤新平が、ボーイスカウト日本連盟初代総長になったときの銅像である。ボーイスカウトの制服である半ズボン姿だ。
  スカウト運動の普及のため、連盟に当時の金で10万円の大金を寄付している。 

後藤新平は安政4年(1857年)胆沢郡塩釜村(現奥州市)で生まれ、須賀川医学校を卒業。満州鉄道総裁、通信大臣、鉄道院総裁、内務、外務大臣等を歴任している。

晩年に残した言葉、「金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、
人を残して死ぬ者は上だ」がある。
含蓄のある言葉だ。


(岩手県奥州市水沢区中上野町)
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奥州市水沢区・南町〜水沢宿〜胆沢城跡〜胆沢川



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