紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 373

奥州市・水沢区佐倉河〜胆沢城跡



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奥州市・水沢区

高橋甚三郎先生碑
  街道右側に「高橋甚三郎先生碑」と刻まれた顕彰碑がある。仔細は風化しており判読できなかった。
  余談であるが、高橋甚三郎の名前は信長公記巻六に出てくる人だ。朝倉義景切腹の折、介錯したのが高橋甚三郎と鳥居与七であった。その後、両人とも切腹している。


谷地橋

谷地(やち)川に架かる谷地橋である。

この谷地川を越えると、かつての胆沢城のあった処である。
左端の標識には左、胆沢城埋蔵文化財調査センターと書かれてあった。



胆沢城、埋蔵文化財調査センター

谷地川を渡ると、左手に鎮守府胆沢城(いさわじょう、いさわのき)、
埋蔵文化財調査センター(写真左端)がある。

胆沢城跡や市内に埋もれた埋蔵文化財の発掘調査と研究、
出土品の保管展示を行なっている。
また、この辺が胆沢城の南側入口である外郭南門のあったところだ。

調査センターの中には、地元水沢区の英雄、アテルイ(阿弖流為)のコーナーもできている。
侵略してきた朝廷軍に対し、蝦夷のリーダーとして勇敢に立ち向かった人物である。
特に、延暦7年(788年)から翌年にかけての巣伏(すぶし)の戦いで、
征東大使紀古佐美(きのこさみ)率いる5万余りの朝廷軍を破ったことで一躍有名になった。

最後は、征夷大将軍である坂上田村麻呂に降伏し、都へ送られ処刑されている。



胆沢城跡、厨地区

街道右側に広大な胆沢城跡が広がっている。

胆沢城は、平安時代はじめの延暦21年(802年)、坂上田村麻呂によって
この胆沢の地(現在の水沢市佐倉河渋田)に造られた古代城柵(じょうさく)だ。

外郭線の規模は、ほぼ方6丁(約44万8900u)。
築地塀で区画され、塀の内側と外側には溝が掘られてあった。

その後、鎮守府が国府がある多賀城からここ胆沢城に移転し、
永保3年(1083年)、後三年の役あたりまで鎮守府として機能していた。

上の写真部分は、胆沢城の厨(くりや)地区である。

説明板(下写真)によると、胆沢城の食料の管理や調理を担当しており、
宴会の料理等はこの厨で用意されていたとのこと。

この写真の後方(北側)に儀式を行う中心施設、政庁があった。


(岩手県奥州市水沢区佐倉河字薬師堂、外和田、九蔵田、渋田)
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