紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 377

金ヶ崎町・西根〜85金ケ崎宿



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金ケ崎


泰養寺

金ケ崎町に入って、街道を進むと右手にどっしりとした構えの泰養寺がある。
永禄元年(1558年)開山の曹洞宗の寺院だ。

近世に入り、伊達藩家臣大町氏が金ヶ崎要害に300石で入ると、
この寺が家臣ともどもの菩提寺として庇護され、城下町に組み入れた。

泰養寺は、中世の舟形館の跡に建っているため、四方が堀に囲まれ、
金ヶ崎要害の南端に位置することから金ケ崎要害の出城的役割を持たされていた。

金ケ崎は、伊達藩の北端で、北側の南部藩と接するため、
北方警備の軍事的拠点として要害屋敷(金ケ崎城)が築かれた。

伊達領は広大であったため、領内の重要拠点に21箇所の要害が設けられていた。
一国一城令がでるまでは支城であった。


西根石塔群
  泰養寺沿いの街道筋に、石塔が集められてあった。金華山、湯殿山等と刻まれた石塔である。


金ケ崎宿入口

泰養寺の前を通り、県道270号線から左に分岐したところである。

この道に入ったところに、「金ケ崎宿南町」の白い標識があった。
この先が、旧奥州街道85番目の宿場金ヶ崎宿の入口付近だ。

この先で、道は右に曲がりさらに右に曲がり、そして左、右、左と曲がっている。
宿場入口特有の分り難い枡形になっているところだ。



松本甚之輔屋敷跡

南町に入って右側に「松本甚之輔屋敷跡」と標柱に書かれた屋敷がある。
説明板のよると、かつての鉄砲、刀鍛冶の屋敷跡とのことだ。


奥州街道標識
  南町に入って、枡形を右折するところに、「奥州街道」と書かれた道標が建てられてある。旧街道歩きにとって、実にありがたい道標である。
  南町のこの辺は古地図によると、町屋では無く「御足軽屋敷」となっている。金ケ崎の宿場の出入り口には守護を兼ね、足軽屋敷が配置されていたようだ。

(岩手県金ケ崎町西根寺下、南町)
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歩行略図
胆沢川〜金ケ崎宿〜JR六原駅



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