紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 404
花巻城下・桜町同心屋敷
Hitosh
同心屋敷 |
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街道右手に、2軒の茅葺き曲り家の向御組町・同心屋敷が保存されてある。 向御組町(現桜町)同心の始まりは、天正19年(1591年)、豊臣秀吉による 九戸政実攻略後、浅野長政支配下の一隊30人が、当地に置いて南部氏に仕え、 花巻同心組みとなったことに由来する。 当初は、花巻城の東、馬場口門に居住していたが、延宝8年(1680年)に ここ向御組町に移された。 同心屋敷は、奥州街道を挟んで東西に15軒ずつ配置され、 花巻城下の南関門を守っていた。 写真は、その内の江戸時代後期に立てられた2軒である。 |
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おくら 同心屋敷へ向かう路地の途中右手に「おくら」がある。 説明によると、「羅須地人(らすちじん)協会」がこの地にあったとき、その庭にあった建物で、協会が移築された際に、近所の青年がこれを譲り受け保存していたという。 羅須地人協会は宮沢賢治が大正15年に設立した私塾である。 なお、「おくら」とは肥料や農具を入れておく物置と厠を兼ねていた小屋のことだ。 |
同心屋敷正面 |
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同心屋敷の正面に回ってみた。 江戸時代後期の典型的な同心堂新屋敷で、右が旧平野家、 左が旧今川家である。 共に間口5間で、奥行3間となっている。 |
宮沢賢治文学散歩の道 |
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同心屋敷の正面前に、「新奥の細道」と題した大きな説明板があった。 宮澤賢治が独居自炊して、農業・芸術を説いたところから、賢治の業績などを 紹介している宮沢賢治記念館への道を、「賢治文学散歩の道」として 遊歩道が整備されている。 説明板には、 「道の途中には、賢治作品の根源である花巻の山や川があり、いわば賢治の時代と 現代を結ぶ道かもしれません。 このみちが「あなたのすきとほった ほんたうのたべものになることを、どんなに ねがふかわかりません(「注文の多い料理店」より)」と記してあった。 写真の道を右に200mほど行くと、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑のあるところである。 道の所々に賢治所縁のモニュメントが設えてあった。 |
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