紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 408
花巻城跡
Hitosh
花巻小校庭、二の丸跡 大手門から枡形を通り、緩い坂を上ったところである。今は、花巻小学校の校庭となっているが、かつては二の丸のあったところだ。 古絵図によると、手前に稽古場があり、その先に馬場があったようだ。 |
花巻小学校 |
二の丸跡に建つ花巻小学校である。 稗貫・和賀郡を管轄していた郡台屋敷跡に、明治6年に作られた学校だ。 この手前に中御門があり、二の丸の正門であった。 |
本丸入口 |
この先、右側に本丸西御門のあるところだ。 この辺には、本丸御長屋があった。 この花巻城は、平安時代末期の安倍頼時が最初に築城した。 当時は鳥谷ヶ崎城(とやがさきじょう)と呼ばれていた。 その後、奥州藤原氏、稗貫(ひえぬき)氏と続いている。 天正19年(1591年)の秀吉の奥州仕置で、小田原攻めに参陣しなかった稗貫氏は 領地を没収され、浅野長政の家臣浅野重吉が入城した。 その後、鳥谷ヶ崎城は花巻城と改められ、南部藩家臣の北秀愛が城代となるが、 急死したため、代わって父の北松斎信愛が城代となる。 慶長18年(1613年)、北松斎の死後は、南部利直の次男政直に2万石を与え、 花巻城主とした。 その政直が、花巻城を近世城郭として完成させ、本丸に二層二階の櫓や 多くの重層の城門を建立させた。 一国一城令の後も、南部藩の抱え城として認められ、政直歿後は城代が置かれ 明治を迎えている。 |
花巻城西御門 |
平成7年に、花巻開町400年を記念して、本丸の西の入口である西御門が復元された。 門の形式は「桝型脇戸櫓門」(ますがたわきどやぐらもん)と呼ばれ、 木造2階建となっている。 |
本丸跡 |
西御門を入ると、本丸跡である。 花巻城は、本丸、二の丸、三の丸の三廓で構成され、本丸には藩主が宿泊する御殿と 城代以下の役人が詰める御用の間があった。 |
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