紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 422
花巻市・石鳥谷宿上町〜上口
Hitosh
県道102号線交差点 |
前方に県道102号線(石鳥谷大迫線)の交差点が見えてきた。 ここを右折すると、北上川に架かる大正橋のあるところだ。 左の家は、関床糧穀鰍ナ精米業のようだ。 この交差点を渡ると、石鳥谷宿の中町から、宿場の出口となる上町に変わる。 |
石鳥谷宿上町民家 4層の屋根を備えた見事な民家である。 |
名残の松 |
石鳥谷宿を抜けると、名残の松の散見する道となる。 花巻宿から、ずっと一本道が続いているが、古代の官道跡のようである。 前方の長坂の長根(現数馬長根)と呼ばれる峠が、 かつての好地村(現花巻市)と大渕村(現紫波町)の境界である。 |
長坂の長根(数馬長根) |
峠の少し手前左側が小緑地となっており、菊池数馬の墓のあるところである。 菊池数馬の父正宗は、小田原の北条氏に仕えていたが小田原城落城で殉じ、 息子数馬は豊臣秀吉の助命により、石鳥谷まで落ち延びて此の地に住むようになった。 菊池家は、藤原道隆の後胤である則隆が延久2年(1070年)に、 肥後国菊池郡に下向した時、地名に因んで菊池氏と称したのが始まりである。 菊池氏は、南朝方勤皇の名家として知られていたようだ。 菊池数馬は新田の開拓や道路、橋の新設、改良に力を尽くし、 隣村犬淵村との境界争いにも活躍、境界の平安を守ったから、住民にも慕われていた。 万治2年(1659年)に75歳で亡くなる前に、自分が境界の鬼となって好地村を守るので、 境界のここに埋めるように遺言した。 それから、此の地長坂の長根は数馬長根と呼ばれ、 石鳥谷開発の恩人として崇敬されてきた。 |
墓石群、菊池数馬の墓 緑地内に4基の墓石が並べて建てられてあった。菊池数馬の墓とのことであるが、どの墓石かは判読できなかった。 |
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