紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 428
紫波町・88日詰郡山宿



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紫波町


88日詰郡山宿

奥州街道88番目の宿場・日詰郡山宿に入るとすぐ左側に立派な建物がある。

木造2階建ての店舗併用屋敷で、豪商・平六商店(造り酒屋、現在の菊の司酒造)の
12代平井六右衛門が大正13年に建てたものだ。

平井家は、江戸初期から藩の御蔵宿(おくらやど)として志和4村の米を預かり、
江戸へ送るなどの倉庫業、運送業、そして宿屋を営んでいた。
6代目ころから酒造も始めている。

紫波町は岩手県では比較的古くから開けた地域で、坂上田村麻呂の東征では
蝦夷との抗争が繰り広げられ、前九年の役でも戦場となったところである。

中世の紫波町一帯は、斯波氏が納め、高清水城を拠点としていた。
斯波氏の支配は天正16年(1586年)に南部氏に滅ばされるまで続いていた。

南部氏は高清水城を郡山城と改名し、寛文7年(1667年)に廃城となるまで続いた。
廃城後は、南部藩の代官所や御蔵が置かれ、奥州街道の宿場や北上川の舟運の河岸として、商業中心の町として発展してきた。



日詰郡山宿・新田地区

白梅館(劇場)で賑わった旧新田地区である。

もりしん(盛岡信用金庫)は、かつての井筒屋彦兵衛店(薬、小間物屋)の跡に建っている。
この向い(右側)には近江商人系の江戸時代から続いた呉服店村谷屋や
近江屋等が軒を並べていたところだ。

新田は、町の周辺に水田を持つ半農半商の商人が多かったことから
ついた町名とのことだ。
また新田には郡山駅(駅舎)があり、今も郡山宿という地名となっている。



街の駅、なんバザ・ホール

日詰商店街の空き店舗を利用した多目的ホール。

日詰商店会の主婦たちが、地元の野菜や、惣菜、食料品、日用品等を
定期的に展示販売もしている。

平井家の分家、平岩長吉が明治43年にここの酒造店を開き、
「白梅」という名の酒を造っていたところだ。

娘婿の直衛(なおえ、金田一京助の弟)が、大正14年に白梅館という
芝居小屋をここに造った。

白梅館は昭和30年頃まで、存続し日詰だけではなく紫波郡の文化の拠点として
活用されていた。



日詰郡山宿・橋本地区

町の中心部旧橋本地区に入る。
この辺りは、銀行や商店が並ぶ日詰の町の中心部となっている。

橋本より北の方(写真前方)は仲町と呼ばれていた。


銭形平次会館
  銭型平次会館と木札の架かった紫波町役場第3庁舎である。
  銭形平次で知られた野村胡堂は、明治15年に紫波町で生まれ、盛岡中学を出た後、東京帝国大学に進んでいる。   

シルバー人材センターや、鰍謔りん舎ゆいっとサロン、
すこやか号バス待合所等ともなっている。

よんりん舎は、「しわ(4つの輪)が重なり合う」と言う意味とのことだ。 


(岩手県紫波町・日詰郡山駅)
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歩行略図
紫波町・JR日詰駅口〜日詰郡山宿〜郡山城址〜JR古館駅



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