紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 435
紫波町・中島〜矢巾町・徳丹城址
Hitosh
徳丹城西辺柵跡公園 |
東京駅発7:16の新幹線はやてに乗り、北上駅でJR東北本線に乗り換え、 古館駅に着いたのは10:43であった。 古館駅より、前回中断した旧奥州街道に復帰する。 古代の東山道を踏襲したと推定される一本道、現在の国道4号線を下ると、 左側に広大な徳丹(とくたん)城西辺柵跡公園が目に飛び込んでくる。 平安時代初期における岩手県の3城柵の一つで、 陸奥国北辺に律令国家が築いた最後の城柵である。 一帯は史跡公園(国指定史跡)として整備されている。 なお、徳丹(とくたん)は、元来は「とこたん」と呼ばれていたが、 後に徳丹の字が当てられることにより、「とくたん」が定着したようだ。 「とこたん」はアイヌ語の「ト・コタン」(集落、村)に由来するという。 |
矢巾町民族資料館 徳丹城跡の一角にある民族資料館。徳丹城跡や藤沢蝦夷森古墳群、その他、町内の遺跡から出土した土器や遺物を中心に保管・展示されている。 |
南部曲り家 |
民族資料館に隣接して、文久3年(1863年)銘の棟札のある旧藤沢村肝煎 佐々木家の南部曲り家が昭和62年に移築されている。 東向きの母家の北端に南向きの馬屋がある典型的な南部曲家である。 藩政時代には村役を務めた農家で、建坪は90坪と大きな家で、 矢巾町指定有形文化財に指定されている。 |
徳丹城政庁跡 |
街道を挟んで右側には、徳丹城柵の政庁跡がある。 この左手には徳田小学校のあるところだ。 延暦21年(802年)、北上川中流域に胆沢城(奥州市水沢)が築かれ、 翌年その北方に志波城(盛岡)が築かれた。 しかし志波城は雫石川の度重なる氾濫により移転を余儀なくされ、 、弘仁3年(812年)、嵯峨天皇が派遣した征夷将軍である 文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)によって、この徳丹城が築かれた。 |
徳丹城跡説明板 |
徳丹城の外郭は一辺360mの築地塀で囲まれていたと推定されている。 胆沢城の670m、志波城の840mに比べると小さいがそれでも広大なものだ。 写真中央部(内郭)が政庁で、一辺80mの板塀で囲まれていたようだ。 |
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