紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 465
盛岡・啄木であい道


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盛岡


北上川、啄木であい道

夕食には早かったので、ホテルに荷物を置いてから、北上川の河川敷を散策する。

前方に見える開運橋から北側の旭橋の間は
「啄木であい道」と命名された散歩コースとなっている。

小径には多数の歌碑が建てられており、
散歩しながら啄木とのふれあいが深まるという趣向のようだ。


石川啄木歌碑
  この歌碑には

  「 花びらや
    地にゆくまでの瞬きに
    閉ぢすもがもか
    吾霊の窓 
        〜石川啄木  」

と刻まれてある。
啄木歌碑

  「  かの時に 
    言ひそびれたる
    大切な言葉は
    今も胸にのこれど
         〜啄木  」
石川節子歌碑

  「  夏潮や
    二人のるなる 舟なれば
    五反帆なれど 日の色そめて
          〜石川節子 」 


石川節子(明治19年生、旧姓堀合)は、啄木の妻である。
父は、後に玉山村(現盛岡市玉山区)の村長になった人だ。

啄木とは盛岡女学校在学中に知り合い、明治38年に結婚、
啄木との間に京子、房江の2女をもうけている。
(長男真一は生後すぐに死亡)

「啄木であいの道」には、この石川節子の歌碑が何点か建てられてあった。
その中より

  「  ひぐるまは
    焔吐くなる我がうたに
    ふと咲き出でし 黄金花かな
                  〜石川節子 」

  「  初秋や まさぬ一夜を 
    髪を梳き かなしとききぬ
    歌やこほろぎ
                  〜石川節子 」

  「  わが娘
    今日も一日 外科室に遊ぶと云ふが
    悲しきひとつ
                  〜節子 」

この他、啄木の歌碑が多数建てられてあった。

なお、啄木は明治45年26歳で、節子は大正2年28歳で死去している。
共に肺結核であった。

長女京子は懐妊中に急性肺炎で2児を残して24歳で死去。
次女の房江は肺結核で19歳で死去・・・・・

これも、悲しき現実である。



旭橋

啄木であいの道の上流側(北側)にある旭橋である。
背後の山は岩手山(2038m)だ。

この後、盛岡駅に向かい、宮澤賢治所縁の店「やぶ屋フェザン店」で夕食をとる。

「やぶ屋」の本店は花巻で、賢治が稗貫農学校(現在の花巻農業高校)の
教員をしていた時の馴染みの店が、名物わんこそばの老舗やぶ屋であったそうだ。

創業は大正12年とのこと。
「わんこそば」は盛岡では無く、花巻が発祥の地とのことだ。

やぶ屋の創業者佐々木圭三氏によると、賢治の好物は天麩羅そばにサイダーであったとか。


(岩手県盛岡市駅前通)
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歩行略図
盛岡市・玉山区川又〜門前寺〜渋民宿



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