紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 478
岩手町・川口城跡


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岩手町


古館川

川口の集落を抜けると、古館川を渡る。
この川の右岸にある標高236mの丘陵が、かつて川口城のあったところだ。

写真は古館川の上流を見たものだ。
この川が、川口城の天然の堀川となっている。

なお、古館川は、姫神山(1124m)東麓、笹ヶ岳(828m)の
北麓を源流とする川で、岩手町で北上川に流入している。



川口城切り通し

古館川を越えると、街道は坂道となり、切り通しとなっている。
この切り通しの右側に、川口城の案内板があった。

この辺一帯が、中世の川口城(館)のあったところである。

左の会社は、府金製粉は地元の小麦を主とした、
小麦粉のメーカーである。

府金は、「ふがね」と読むようだ。


川口城標識
  切り通しの右側に、川口城跡碑と説明板がある。川口城は代々川口氏の居城で、「豊城」とも呼ばれた。
  古くは、蝦夷館と思われる。川口氏築城の規模・構造は明確ではないが、西に北上川、南に古館川の崖地、北に丹藤川があり、天然の地形を利用した標高236mの山城であった。 


川口城跡

川口城の一角で、この辺に館があったようだ。

記録によれば、城主は「川村四郎秀清、文治5年(1189年)源頼朝より、
岩手県の内下給、川口古館に居住、命により在名に改む」とある。

川口氏の祖で、川口城はその子孫の居城であった。

その後、川口氏は南部藩に仕え、
天正19年(1591年)の九戸の乱に参陣している。

文禄元年(1592年)、城は破却となり、
川口氏は八戸南部藩主直房に従い八戸に移り、家老となっている。



川口城より街道

川口城跡より北側の旧街道を見下ろした写真だ。

この道路が現在の県道158号線となっている。
この右手には岩手町立川口中学校のあるところである。


(岩手町川口第17地割)
1111/1210

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