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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅2

1板橋宿志村2蕨宿3浦和宿4大宮宿


作者 Hitosh



1板橋宿
 

板橋駅東口前



旧中山道の2日目はJR板橋駅からである
右の銅像は東口にある北村治禧作の「麗新」である

今回は写真仲間のE氏と待ち合わせをし
朝の8時にここを出発した


(東京都板橋区)



板橋宿入口



現中山道(国道17号線)の下を潜ると
旧中山道の最初の宿場、板橋宿に入る
板橋宿は本陣1、脇本陣3、旅籠は68軒もあった
今は商店街となっている

この板橋宿入口の所はかつては旧川越街道との追分であった




板 橋



石神井川に架かる板橋(いたのはし)である

この橋の右手袂には高札場があった
この橋が板橋(いたばし)の宿名の発祥となったところだ




板橋上宿入口



板場宿は下宿(平尾宿)、仲宿、上宿の三つに別れていた
板橋からここまでが上宿で、有名な縁切り榎(えのき)のあるところである
京都から来ると、板橋宿の入口に当たるところである

今回はここを後にして、次の蕨宿に向かった


(東京都板橋区)



志村〜戸田
 

志村一里塚





旧中山道を歩いていて、初めて現存する一里塚である
日本橋より3番目(12Km)の一里塚となる

周囲の石積みは、塚の崩れを防ぐため、あとから付けられたもの

下の写真は右側の一里塚である


(東京都板橋区志村)



清水坂



旧中山道の最初の難所であった清水坂
一里塚のある志村坂上よりS字形に下っている坂である

ここからは、冨士山が右に見えたため
旧東海道の「左冨士」に対し、こちらは「右冨士」と呼ばれていた

なお、清水坂の名は、近くにある清水薬師から付けられている


(東京都板橋区志村)



志村橋




新河岸川に架かる志村橋
かつての新河岸川は江戸と川越を結ぶ舟運で知られた川であった


(東京都板橋区坂下)



戸田橋





荒川に架かる戸田橋
戸田橋を渡ると埼玉県である

この橋の150m位下流に戸田の渡船場があった

下の写真は、対岸の戸田側の土手に建っている
戸田の渡し記念碑である

このすぐ右手には水神社がある


(埼玉県戸田市)



2蕨宿
 

蕨宿入口



戸田橋を渡ると程なく蕨宿に入る

写真は旧中山道の蕨宿の江戸方入口(木戸)である


(埼玉県蕨市)



民俗資料館別館





右に行くと蕨駅である
旧中山道は左の道である

この角に江戸時代より続いていると言う鰻屋「今井」(創業250年)に入り昼食をとった

旧中山道を歩いている人が良く立ち寄るとのこと
店の主人に、蕨宿の古い建物や、その謂れを教えてもらった


(埼玉県蕨市)



民俗資料館



蕨市立民俗資料館である
内部には実物大の旅籠の様子や当時の食事などが展示されている

この建物の右手に本陣跡があった


(埼玉県蕨市)



地蔵の小径



この左手に三学院がある
角にある店は江戸時代より続いている手作り煎餅の店満寿堂である
10代続いている老舗である

連れがここで、名物の煎餅を購入した
徒歩の旅人にとって、この店の茶の接待は何よりもありがたかった


(埼玉県蕨市)



三学院



旧中山道の右、地蔵小径の先に三学院がある
真言宗の寺である

三学院(さんがくいん)の本堂にある本尊は
平安時代後期作の木造十一面観音像とのこと

家康より寺領20石を寄進され、その朱印状が残されている
関東七ヶ寺の役寺として格式の高い寺である


(埼玉県蕨市)



目疾地蔵




三学院の境内にある目疾(めやみ)地蔵
地蔵の目に味噌を塗り、願いをかけると目の病が治るという

この地蔵は万治元年(1658年)、念仏講を結んだ13人の人々が
この世とあの世の安楽を願って建立した由


(埼玉県蕨市)



蕨宿京方木戸付近




三学院より旧中山道に戻った

蕨宿の出口は小公園となっている
ここで小休止し、次の浦和宿に向かった


(埼玉県蕨市)



3浦和宿
 

焼米坂



焼米坂(やきごめさか)を越えると浦和宿に入る

焼き米とは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて
殻をとり食べるもので、米の古い食べ方の一種であった
この坂道の茶店の名物であった

現在はこの坂の下のトンネルをJR武蔵野線が走っている


(埼玉県浦和市)



調神社





調(つき)神社は平安時代から続く古社(式内社)である

租庸調の調で、調ぎ物(みつぎもの)のこと
武蔵国の調がここに集荷され、東山道(旧々中山道)を経て京都に運ばれたところである

調(つき)は月待信仰と結び付き
ここは狛犬の変わりに境内の入口には一対の兎が鎮座している


(埼玉県浦和市)



浦和宿





浦和宿は、江戸から3番目の宿である
本陣1、脇本陣2、旅籠15軒で
県内にある中山道の宿場としては一番小さい宿であった

写真のこの辺が浦和宿の中心であったが
かつての面影は残念ながら何も残されていなかった

下の写真は、常盤公園入り口にある市場通りである
かつては、ここで市が開かれていたところだ

月の2と7の付く日(計6日)に市が開かれていたことから
六斎市(ろくさいいち)と呼ばれていた


(埼玉県浦和市)



4大宮宿
 

半里塚



JR与野駅前の交差点にある大きな欅の古木
一里塚と一里塚の中間にあるから、半里塚と言うそうだ

半里塚跡が残されているのは全国でもここだけであろう


(埼玉県さいたま市)



欅並木



ここから欅並木が約500m続く

左側に続いている大きな建物は「さいたま新都心」として
最近建てられた国の庁舎群(合同庁舎、国税局、郵政庁舎等々)である


(埼玉県さいたま市)



お女郎地蔵と火の玉不動



欅並木の切れたところの歩道の真中に
お女郎地蔵(写真右)と火の玉不動(同左)が鎮座している

大宮宿に千鳥と呼ばれる女郎がいた
好きな人がいたが、泥棒の神道徳次郎が横恋慕し
千鳥を身請けしようとした
千鳥は進退窮まり、近くの高沼用水に架かる高台橋より身投げしてしまった

そのころから千鳥の人魂が飛ぶようになったので
近所の人が地蔵を立て霊を慰めたという

またそのころ、夜になると火の玉が毎夜の様に現れるので
一人の男が、火の玉に切りつけたところ叫び声と共に
火が消え、そこに物凄い顔をした男が立っていた
名を問うと不動明王と答えた

翌日、近くの高台橋に、剣を切り取られた
不動明王があった

以後、この不動明王を「火の玉不動」と呼ぶようになったとか


(埼玉県さいたま市)



氷川神社参道




旧中山道に右に分岐して氷川神社の表参道がある
入口は大きな石碑「武蔵国一宮」と掘られた大きな石柱がある

かつてはこの参道が中山道であった

街道が神域を通るのは不敬と言う事で
関東郡代の伊能忠次が寛永5年(1628年)に
参道の左側に新しく道を作り
その両側に宿を移転させ、大宮宿とした


(埼玉県浦和市)


大宮宿







大宮宿の中心である
かつての本陣((北澤本陣)は、今はデパートの高島屋付近とのこと
記念碑等は何も無かった

大宮宿は本陣1、脇本陣がなんと9軒もあった
脇本陣9軒は、江戸時代の五街道の中で最大であった
旅籠は29軒である

今回は、徒歩の旅をここで中断し、
高島屋の角を曲がり、JR大宮駅から
埼京線で帰宅した

今回の実歩行距離は21.9kmであった


(埼玉県さいたま市)


0602/0608


歩行略図

歩行距離 20.2km
(青線部を歩行)











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