悠々人の日本写真紀行へ移動します



旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅4

7鴻巣宿間の宿・吹上熊谷堤8熊谷宿籠原


作者 Hitosh




7鴻巣


鴻巣駅



朝の8時20分、鴻巣駅に着いた
今日は、ここからの旧中山道歩きとなる

駅前は再開発の真っ最中で、かつての古い街並みは
すっかり更地となっていた

東急ストアや8スクリーンのシネコン、高層マンション等が出来る由


(埼玉県鴻巣市本町)


鴻巣市街



この左手付近にかつては本陣、脇本陣や問屋場があったが
明治5年の大火で、すべて焼失してしまった


(埼玉県鴻巣市)


鴻神社



元の雷電神社である
明治になって、氷川神社、熊野神社と合祀され鴻神社となった

雷電神社は、埼玉県の平野部から群馬県、栃木県に多い神社である
いずれも雷の多いところで、その雷を祀ったものであった


(埼玉県鴻巣市)


箕田観音堂



ここの観音様は、源頼光四天王の一人
鬼退治で知られた渡辺綱の守り本尊と伝えられている

ここ箕田(みた)の地は、嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地である


(埼玉県鴻巣市箕田)


宝持寺



箕田氷川八幡神社の裏手にある宝持寺(ほうじじ)は
渡辺綱が開いた寺で、使用していた刀と位牌があるという


(埼玉県鴻巣市箕田)


箕田追分



武蔵水路に架かる中宿橋を渡ると、箕田の追分である
左が旧中山道だ

この写真の左手に地蔵堂があり、右側(写真中央)に旧中山道の碑がある


(埼玉県鴻巣市箕田)

間の宿・吹上


吹上街並



JR高崎線の踏切を渡ると間の宿であった吹上町に入る


(埼玉県鴻巣市吹上町)


元荒川



吹上駅前を右折すると元荒川である
丁度サクラが満開であった

サクラの名所として知られたところである


(埼玉県鴻巣市吹上町)


間の宿・吹上宿の碑



吹上宿の外れに、間の宿・吹上宿の石碑と案内板がある
旧中山道は、この階段を上り、JR高崎線を渡り、反対側となる

次は荒川の熊谷堤を経て熊谷宿となる


(埼玉県鴻巣市吹上町)


熊谷堤


権八ものいい地蔵





間の宿・吹上を抜け、JR高崎線の線路を渡ると
荒川の土手・熊谷堤(くまがやつつみ)に出る
旧中山道は、この堤の上であった

その手前の堤への登り口にあるのが権八地蔵である
鳥取藩士を父に持つ、ご存知平井権八(歌舞伎では白井となっている)が
江戸に向かう途中、金に困ってここで辻斬り強盗をした

その現場をお地蔵さんに見られ
「誰にも言うな」と言ったところ、「わしは言わぬが、お前も言うな」
と地蔵に言われた由

しかし結局権八は自分でそのことを言い
延宝七年(1679年)に磔刑となり
鈴ヶ森に晒されることになった

地蔵はそれを見通した上で、上記の様に言ったとか
それ以来、この地蔵は「権八ものいい地蔵」と呼ばれる様になった


(埼玉県鴻巣市吹上町)


熊谷堤







旧中山道は、この熊谷堤の上である
現在でも約2.5km続いている

関東平野のど真ん中と言う感じで
見晴らしが良く、気持ちの良い旧街道である

この堤は天正二年(1574年)、鉢形城主北條氏邦が
荒川の氾濫に備えて造ったと言う


(埼玉県鴻巣市吹上町〜熊谷市久下)


東竹院



荒川にかかる久下橋を渡り
熊谷堤を降りたところにあるのがこの東竹院である

久下村の領主であった久下直光(くげなおみつ)の開いた寺で
一族の墓がある

鎌倉後期から、一族の分裂を避けるため
団結の象徴として寺を開く武将が多くなったが
中山道沿いではそれが今も多く残されている

あの熊谷直実は、父が早世したため
この久下直光の基で養育されていた

後になって、直実は、この育ての親である直光と所領争いをして
源頼朝の前で対決したが破れ、これが原因で出家した

歌舞伎の話とは違うが、これが真実のようである


(埼玉県熊谷市久下)


元荒川源流



現在の荒川は洪水を防ぐために、寛永6年(1629年)に
関東郡代の伊奈忠治によって
熊谷市石原で入間川水系の和田吉野川筋に付替えられたものだ

残された元荒川は各地の湧き水と
荒川の水産試験所の水を集めて
現在の川となっている

写真はその源流付近のもので、水がまだ綺麗であった

世界でここだけに生息する「ムサシトミヨ」が有名である
とげうおの一種で背びれや腹びれに棘があるのが特徴

元荒川を越えると、いよいよ熊谷宿である


(埼玉県熊谷市熊久)


熊谷宿


旧中山道



熊谷堤をおりて、元荒川を渡ると、いよいよ熊谷宿である
写真は、熊谷市曙町

この少し先、右手にある曙町自治会館の横が
かつての八丁の一里塚のあったところだ

今は小公園となっており、簡単な説明板があるだけである
英泉の浮世絵「八丁堤の景」で描かれているところである


(埼玉県熊谷市曙町)


熊谷駅



八丁の一里塚を過ぎるとすぐ熊谷宿である

旧中山道はここで熊谷駅(左手)の鉄橋と交差している
手前の線路は秩父鉄道、高架を走っているのが上越新幹線とJR高崎線である


(熊谷市曙町4丁目)

現中山道



上越新幹線のガードを潜ると、旧中仙道は
現中山道(国道17号線)と合流している


(熊谷市筑波1丁目)


札の辻



熊谷宿の中心地、札の辻のあったところだ

熊谷宿は本陣1、脇本陣1、旅籠19軒の宿場であった


(熊谷市本町)


熊谷寺前バス停



熊谷寺前のバス停である
ななかな凝ったバス停である

このバス停の隣(写真手前)に本陣があった
今は本陣跡の石碑と説明板があるのみである


(熊谷市本町1丁目)


星渓園



熊谷本陣の別邸が残されている

湧き水を利用した玉の池を中心に
木竹を植え、名石を集めて庭園とした
星渓円はその庭園の名前である

明治になると昭憲皇太后や秩父宮様もここに宿泊されたとか


(熊谷市鎌倉町)

熊谷寺



ここはかつて、熊谷氏の屋敷があったところ
出家した熊谷直実が元久元年(1204年)に蓮生庵(れんせいあん)を建てた所だ

天正年間(1573−1592年9に幡随意上人が蓮生庵の跡に
熊谷寺(ゆうこくじ)を建てたという

本堂左手に、熊谷直実の墓と伝えられる塔が建っているが
ここは入ることが出来なかった


(熊谷市仲町)


旧中山道



熊谷寺を出ると、旧中山道は国道17号線と別れ
もとの狭い道幅のままの街道となる


(熊谷市本石)

籠原


新島一里塚



熊谷宿を出て、秩父街道の追分を過ぎたところに
この新島の一里塚がある

樹齢300年以上の欅(けやき)の大木である
一里塚には、普通は榎(えのき)が植えられているが、ここでは欅であった

調べてみると、当初の記録では榎であったが
いつの間にか欅に植え替えられているという

この辺では冬の空っ風が有名であるが
欅は農家の防風林として利用されている樹木であった

この写真は右側(東側)の一里塚で、左側は現存していない


(埼玉県熊谷市新島)


忍領石標





新島の一里塚のすぐ先の民家の前に
忍領の石標が残されている

石標には
「従是南忍領 安永九年」(1773年)と刻まれている


(埼玉県熊谷市新島)


玉井 旧中山道



籠原の住宅地に入る
旧中山道から一歩脇道に入ると、新興住宅地(玉井団地等)となっているところだ

上野発のJR高崎線はここで終点となっている電車が多い
この辺までは、東京への通勤圏となっている様だ

今回はここで、旧中山道歩きを中断し、JR籠原駅より帰宅した


(埼玉県熊谷市玉井)
0604/0608

歩行略図

歩行距離 23.4km
(青線部を歩行)









前へ 中山道目次 次へ






悠々人の日本写真紀行

北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

作者 Hitosh


inserted by FC2 system