悠々人の日本写真紀行へ移動します



旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 7

北高崎上豊岡14板鼻15安中宿原市磯辺温泉


作者 Hitosh



北高崎


高崎宿歌川町・旧中山道



JR高崎線の上野発6:38で出発。北高崎に到着したのは朝の8:42であった
いよいよ、上州路を碓氷峠に向け出発である

旧中山道に復帰して、最初の高崎神社で道中安全の祈願をして
烏側沿いの道を進んだ

ここが旧中山道である


(群馬県高崎市歌川町)


君が代橋より烏川



烏川に架かる君が代橋より上流を見た写真である
旧中山道はこの川の左側を進む

君が代橋の謂れが気になり調べてみた

江戸時代はここには筏場(いかだば)橋が架かっていた
それが、明治4年に常(つね)橋となった

さらに明治11年、天皇の北陸巡幸の折
常橋は改造され、その時に
名前を君が代橋としたとのこと


(群馬県高崎市倉賀野町)


草津追分





烏川の左側を少し進むと、草津街道との追分となる
右が草津街道(現国道406号線)で、左が旧中山道である

古い道標には右「草津温泉」と大きく彫られている
榛名山の南麓を通って草津へ抜ける道である


(群馬県高崎市下豊岡町)

上豊岡


上豊岡の茶屋本陣



旧中山道を1kmほど進むと左側に
上豊岡の茶屋本陣跡が残されている

高崎宿と板鼻宿のほぼ中間に位置し
大名や日光例幣使の休憩用に作られたものだ

建物の内部は見学出来るようになっている
(月、火は休館日)


(群馬県高崎市上豊岡町)


藤塚の一里塚



茶屋本陣を抜け、上豊岡町の交差点で、現中山道(国道18号線)を横断する
旧中山道は碓氷川の自然堤防の上となり、現在はサイクリング道路となっている

そして、右側のこんもりとした木(榎が2本)のあるところが
藤塚の一里塚である

日本橋より7番目の一里塚(112km)となる
群馬県下で現存する唯一つの一里塚である

右の道路は現中山道(国道18号線)である


(群馬県高崎市藤塚町)


少林山達磨寺



碓氷川に架かる鼻高橋である
橋の柱頭にちょこんと乗っている、赤い達磨が粋である

この橋を渡り、左手の鼻高(はなだか)丘陵の中腹に
少林山達磨寺(だるまじ)がある

達磨寺は享保年間(1716〜36年)に開かれた寺で
毎年正月6、7日に行われるダルマ市は盛大である


(群馬県高崎市鼻高町)

14板鼻宿


板鼻宿 JR信越本線の踏切



信越本線の踏切を渡ると板鼻宿である
信越本線と言っても、今は高崎と横川駅を結ぶ
ローカル線と言った感じである

かつての碓氷峠越えの線路が廃止(平成9年)になってしまったため
軽井沢より先に行くためには、新幹線を利用するしかない

もっとも横川〜軽井沢の間は
本数は少ないが、JRバスが申し訳なさそうに走っている


(群馬県安中市板鼻二丁目)


14板鼻宿本陣跡



この辺に板鼻宿の木島本陣があった
今は標識を残すのみであるが、右奥の公民館のところには
旧本陣の書院が残されている

江戸より14番目の板鼻宿は
本陣1、脇本陣1、旅籠54軒の大きな宿場である
多くの飯盛女を抱え、中山道上州七宿の内、最大の宿場であった

旧中山道で、ここより大きい宿場は、この先40番目の塩尻宿しかない


(群馬県安中市板鼻一丁目)


板鼻川



板鼻川は板鼻宿の北側を、板鼻宿に並行して流れている

もとは碓氷川から取水して板鼻堰用水路で
文字通り板鼻宿の生活用水であった

その後道場川、大谷津川が流入し、今では1級河川に指定されている


(群馬県安中市板鼻一丁目)


碓氷川、鷹之巣橋



板鼻宿を抜けると碓氷川に架かる鷹之巣橋で、
県道(171号、吉井安中線)に合流する

この橋の袂(写真手前)が、かつての板鼻宿の上木戸であった

旧中山道はこの橋の少し上流(右側)であるが
今は渡る事が出来ないのでこの鷹之巣橋を渡る

この橋の北側に、鷹の巣山があり
頂上には中世の鷹之巣城(板鼻城)があったところだ


(群馬県安中市板鼻一丁目)

15安中宿


中宿、安中駅前方面





鷹之巣橋を渡り、すぐ右折し碓氷川沿いの道に入る
旧中山道である

少し進むと、溜池越しに
JR安中駅方面が見わたせる

その背後にあるのが東邦亜鉛の大きな工場である


(群馬県安中市中宿)


碓氷川



旧中山道は碓氷川の堤防の上となる

碓氷川に架かる久芳橋のところで現中山道(国道18号)と
合流し、その橋を渡る

写真は碓氷川の下流側である


(群馬県安中市中宿)


安中宿、伝馬町



碓氷川に架かる橋、久芳橋を渡って
最初の信号を左に入ったところが旧中山道である

そして、旧中山道15番目の宿場安中宿に入る
本陣1、脇本陣2、旅籠17軒であった

安中宿は北側を流れる九十九川と南側の碓氷川の間の
河岸段丘の上にある宿場である

安中城下(安中藩、板倉氏3万石)で、飯盛女を置くことが許されず
宿場としては衰えるばかりであったという

その分、飯盛女の多い隣の板鼻宿が栄えたと言う


(群馬県安中市安中三丁目伝馬町交差点)


安中宿、郡役所



伝馬町交差点を右折し、急な大手坂を登った所に
碓氷郡役所がある

明治21年に建てられたもの

明治11年、郡区町村編成法が制定され
郡が行政区画となり、郡長が置かれた
この時、碓氷郡の役所が安中城の町口門の北側のここに設置された由


(群馬県安中市安中三丁目)



安中教会



日本キリスト教団安中教会
新島譲祈念会堂(礼拝堂)が中心となっている

この辺がかつての大手門のあったところだ

新島譲は安中藩祐筆の長男で
元治元年(1864年)に国禁を犯しアメリカに渡った
帰国後、この安中に戻り両親と再会した

その家が、今も「新島譲旧宅」として残されている
後に京都に同志社英学校(現同支社大学)を設立した


(群馬県安中市三丁目)



安中藩郡奉行役宅



郡役所、安中教会の前の道、大名小路を西に行くと
この建物がある

安中藩郡奉行役宅である
長屋門と母屋からなり、内部が公開されている

なお、郡奉行とは、代官を通じて領内の村々を支配し
警察権や裁判権(行政)を行使した上級役人である


(群馬県高崎市倉宮元町)



安中藩武家長屋



さらに大名小路を西に行くと左手に
この安中藩武家長屋(四軒長屋)が復元されている

なお大名小路の北側一帯が
かつての安中城二の丸のあったところだ


(群馬県安中市安中三丁目)



安中宿、便覧舎跡




右の倉の前に、便覧舎石碑がある
民間人が創設した日本最初の図書館のあったところである

明治5年、湯浅治郎が、私費を投じて
和漢や西洋の古書や新刊書を3000冊購入し、無料で公開したという

なお、湯浅氏は新島譲より洗礼を受け
安中教会を創立した一人である


☆ ☆

ここで、安中宿を終わり、次の間の宿原市
そして16番目の宿松井田へ向かった


(群馬県安中市安中一丁目)

原 市


安中・原市の杉並木





旧中山道の第15番目の宿場・安中宿を出ると、次は松井田宿となる
その中間にあるのが、間の宿(あいのしゅく)原市(はらいち)である

安中宿から原市の入口に掛けては、見事な杉並木となっている
かつては700本近くあったという


(群馬県安中市原市)


間の宿・原市の街並



間の宿原市の街並みである
茶屋本陣跡や高札場跡碑が設置されている


(群馬県安中市原市)


原市村 戸長役場跡



旧原市村の戸長役場がそっくり残されている

もともとは碓氷郡原市村であったが
原市町を経て、今は合併し安中市原市となっている


(群馬県安中市原市)


地蔵堂・立場茶屋跡





原市の旧中山道を挟んで、地蔵堂と八本木立場茶屋跡がある
立場とは街道などで人夫が籠などを止めて休むところを言う

地蔵堂の説明板によると、参勤交代の大名もここで参詣したとのこと

一般の旅人も、休憩するのにも丁度良い場所であったのであろう


(群馬県安中市原市)


地蔵堂前・旧中山道



原市の立場茶屋跡、地蔵堂を過ぎると、道はやや上り坂となっている
今回は、この先の信号で左折し、碓氷川河畔の磯部温泉に向かった

旧中山道六十九次の徒歩の旅で、初めての宿泊である
今回で、上州路が終わり、次回からは信濃路となる

長い関東平野の徒歩の旅の自分へのご褒美として
温泉でのんびりすることにした


(群馬県安中市原市)

磯辺温泉


磯部温泉







旧中山道より、碓氷川に下って行くと
川の畔に磯辺温泉がある

古くから親しまれている温泉だ
天明3年(1885年)の浅間山の大噴火の時に湧出したという

また、御馴染みの温泉マークの発祥地としても知られている

万治4年(1661年)、江戸幕府が付近の土地争いの決着を
付けるための評決文に貼付された絵図面に
磯辺温泉と記され、温泉マークが2つ付けられていた

これより古い例は、他には無いという

旅館より真西に妙義山が良く見える
これからは、この妙義山に向かって歩くことになる

のんびりと温泉に入った後の生ビールが格別であった


(群馬県安中市磯部温泉)
0605/0608

歩行略図

歩行距離 18.1km
(青線部を歩行)







前へ 中山道目次 次へ






悠々人の日本写真紀行

北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他

作者 Hitosh


inserted by FC2 system