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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 15

26芦田宿笠取峠〜27長久保宿


作者 Hitosh



26芦田宿


芦田宿・中居







日が西に沈む頃正面の坂の下に
中山道27番目の宿場、芦田宿の町並みが見えてきた

大分日が短くなってきた


(長野県立科町



芦田宿・本陣跡



夕方の6時に芦田宿に着いた
右手に本陣土屋家、そして信号左手に脇本陣山浦家のあるところだ

芦田宿は本陣1、脇本陣2、旅籠6軒であった


(長野県立科町


芦田宿・金丸土屋旅館





旧中山道の芦田宿である
岩村田宿、望月宿、間宿茂田井を経て、到着したのは夕方の6時であった

今夜は江戸時代より続いている旧旅籠・金丸土屋旅館に泊まった
建物は江戸時代後期のものとのこと
この旅館の本家が土屋本陣とのことであった

通された部屋が、一番奥の「上の間」で
庭に面した8畳の部屋であった

1階だけで、この8畳間が9つもある大きな旅館である
隣の部屋との境は襖1枚である
かつては相部屋が普通であった

今日の佐久盆地は猛暑であった
熱中症に気をつけての街道歩きであったので
宿での冷えたビールが旨かった


(長野県立科町芦田)


笠取峠


笠取峠・松並木





朝7時30分に、旅館を発つ

芦田宿を出ると、難所笠取峠の登り道となる
この辺の標高が800mである

この松並木の左手一帯が
笠取峠の松並木公園として保存されている

江戸幕府より慶長7年(1602年)に
アカマツ753本を小諸藩に下付されたもの

106本(樹齢150年以上のもの)が今も生き残っており
長野県の天然記念物に指定されている

ベンチも置いてあり、快適な空間となっていた


(長野県立科町


笠取峠





松並木を抜け、しばらく坂を上ると
標高876mの笠取峠頂上である

頂上には立場があり
説明版(写真下)に往時の「笠取峠御立場絵図」が大きく描かれていた

なお笠取峠は、古くは雁鳥峠とか狩鳥峠とも呼ばれていた
今は、この辺は「学者村」の名付けられた別荘地となっている


(長野県立科町


笠取峠・中山道原道



笠取峠を越えると長野県の長和町に入る
つい最近、長門町と和田町が合併して、長和町となったばかりだ

道はかつての中山道が原中山道として残されている
途中、薮漕ぎも必要な山道であった


(長野県長和町)

27長久保宿


中山道



中山道はここで視界が開けてくる
ここの標高が750mであった

間もなく次の27番目の宿場・長久保宿である


(長野県長和町)


長久保・松尾神社







長久保宿沿いを流れる谷川五十鈴川の畔に
この松尾神社があった

丁度秋祭りの最中であった
地元の人に聞いたら「長久保まつり」と言うそうだ

神社の境内では
三匹の獅子の奉納舞が勇壮に行われていた


(長野県長和町長久保)



長久保宿








松尾神社の鳥居を潜ると、長久保宿である

この辺は、和田とともに天領(幕府直轄地)であった

慶長8年(1603年)に
この地よりやや北の古町(元の長窪)の
次、三男をここに移住させ
宿場としたという

本陣1、脇本陣1、旅籠43軒と信濃路では大きい方の宿場であった


(長野県長和町長久保)



長久保宿・本陣跡




長久保宿本陣跡である
この本陣は寛永年間(1624〜44年)のもので
中山道に残されているもので最古のものとのこと

江戸初期の御殿が今も残っているのである


(長野県長和町長久保)



長久保宿・上木戸




長久保宿を抜けると、旧中山道は、依田(よだ)川沿いの山間の道となる

和田峠への長く緩い登り道となっている
その坂の途中に次の28番目の宿場和田宿がある

和田宿までは約二里(8km)の上り坂であった
ここで標高が680mで、和田宿が850mである
約170mの標高差である


(長野県長和町長久保)
0609/0610

歩行略図

歩行距離 6.6km
(青線部を歩行)




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作者 Hitosh


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