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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 19

塩尻〜31洗馬宿〜32本山宿〜贄川関所


作者 Hitosh



塩尻


ホテルあさひ館



昨夜は暗くなってからのホテル到着であった
朝7:00に朝食を済ませ、直ぐ出発した

大分日が短くなってきたので、街道歩きも効率が悪くなってきた


(長野県塩尻市大門八番町)



平出一里塚



旧中山道に復帰し中央本線のガードを潜ると
左手に平出の一里塚が見えてきた
写真左手の大きな松の木のあるところである

江戸から58里((232km)とある


(長野県塩尻市平出


平出遺跡



一里塚を過ぎると左手に平出遺跡がある
縄文時代から平安時代までの大規模な複合遺跡が発掘され
一部は歴史公園となっている

平出遺跡考古博物館や歴史民族資料館などの施設が整備されている

写真の左後方には乗鞍岳が見えた

手前は広々とした桔梗ヶ原である
室町時代の古戦場として知られたところであるが
今は一面葡萄畑となっている


(長野県塩尻市平出

31洗馬宿


太田の清水







中山道の31番目の宿場,洗馬(せば)に入ると
右手崖の途中に太田の清水がある
今でも冷たく美味しい水が飲めるようになっている

側に「あふた清水」の石碑がある
昔の大田村である

木曽義仲が家臣の今井兼平とここで逢い
兼平に馬の足を洗ってもらったのがこの清水とか
洗馬(せば)の地名はこの故事による

下の写真は太田の清水から崖下を見た写真である
奈良井川の河岸段丘は田圃となっている

これからはこの奈良井川に沿っての旅となる


(長野県塩尻市洗馬)


洗馬宿家並





洗馬宿の町並みである

本陣1、脇本陣1、旅籠21軒の宿場であった
残念ながら、昭和7年の大火で、宿場は全焼してしまったとのこと

ここに本陣跡、脇本陣跡等の標識があるのは救いであった


(長野県塩尻市洗馬

32本山宿


旧中山道家並





洗馬宿を出ると、旧中山道は、段々山間(やまあい)の道となってくる

奈良井川沿いの狭い河岸段丘の上を現国道19号線とJR中央本線
そして旧街道が互いに交差しながら並行して走っている感じである

信濃路最後の宿場である39番目の本山(もとやま)宿は
信州蕎麦の発祥の地として知られている

江戸時代の太田蜀山人の狂歌に
「本山のそば名物と 誰も知る 荷物をここに おろし大根」
とある

本陣1、脇本陣21、旅籠34軒であった


(長野県塩尻市本山


本山神社






本山宿のはずれの山腹に本山神社がある

上の写真は、この本山神社の拝殿前から
南側の旧中山道を見たものである

いよいよ木曽路と言った雰囲気の道筋となっている


(長野県塩尻市本山

木曽路


是より南木曽路





本山宿を出ると、程なく木曽路となる
桜橋(古くから境橋とも呼ばれていた)を渡ると
右側に、「是より南 木曽路」の石碑が立っている

裏には、「木曽路ハ コノ桜沢ノ地ヨリ 神坂(みさか)ニ至ル
南二十余里ナリ」と彫られている

いわゆる木曽11宿の始まりである

交通標識も「これより先木曽路」とある
ここから楢川村に入る


(長野県塩尻市楢川村


桜沢



足が竦むような桜沢の断崖である
下の川は奈良井川である

旧中山道はこの断崖沿いの道となっている
この崖沿いにへばりつく様に桜沢茶屋本陣があった


(長野県塩尻市楢川村


贄川関所





山道(旧中山道)を歩いていくと、前方が突然開けた

木曽路最初の宿場・贄川(にえかわ)である
その入り口に贄川の関所があった
正しくは、贄川口留番所と記録されている

ここに関が置かれたのは戦国時代の天文年間(1532〜1555年)で
江戸時代は、木曽の統治を任された山村氏が管理していた

主に女改めと、檜などの木材とその加工品を取り締まっていた

関所を越えると33番目の宿場・贄川宿である


(長野県塩尻市楢川村贄川


贄川駅





贄川の地名は、昔温泉が出たところから熱川と言われ
後に諏訪大社に川魚を御贄として供進したことに由来するとのこと

次の駅(木曾平沢)が遠く、明るいうちに
到達出来そうも無いので、ここで今回の徒歩の旅を中断した


中央本線の各駅松本行き(下写真)で塩尻まで戻り
新宿行きの特急スーパーあずさ号に乗り換えて帰宅した


(長野県塩尻市楢川村)
0610/0611

歩行略図

歩行距離 15.6km
(青線部を歩行)









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作者 Hitosh


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