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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 28

南木曽〜妻籠城〜42妻籠宿


作者 Hitosh



妻籠城址


旧中山道・石畳



かぶと観音堂を出ると、緩い上り坂となる

綺麗に整備されており、実に歩きやすい石畳であった


(長野県南木曽町神戸)




上久保・一里塚



石畳の坂を上ったところに、上久保(うわくぼ)の一里塚がある
当時のまま、道の両側に残されている

江戸より78番目(78里、約312km)の一里塚である


(長野県南木曽町上久保)



妻籠城跡








旧街道より、妻籠城址は右の脇道に入る
急坂ではあったが、どうしても行ってみたくて上った

妻籠城址よりは、真下に妻籠宿の全貌が見える(下写真)

妻籠城は木曾路名所図会によると
「天正10年(1582年)、木曾義昌 これを築きて 山村良勝をして ここに居らしむ」
とある

豊臣秀吉と徳川家康が小牧・長久手の戦いで対立したとき
秀吉方の木曾義昌が建てたものだ

その時、家康の軍に攻められたが落城しなかった堅城である

写真中央が頂上で、ここに一の丸があった
空堀や柵跡等の遺稿が残されている


(長野県南木曽町妻籠)


42妻籠宿


42妻籠宿入口・下町



妻籠城から急坂を一気に下ると妻籠宿である
ここが江戸側の入り口であった


(長野県南木曽町妻籠下町



鯉岩



妻後宿入り口の左側に鯉岩(こいいわ)と呼ばれるう大きな石があった
鯉の形をしていたが、明治24年の地震(濃尾大地震)で転倒し、上向きのものが右向きになったという

今でも、何となく鯉に見える岩である

この鯉岩の先(写真右手)が、妻籠宿の口留番所跡である


(長野県南木曽町妻籠下町)


妻籠宿・中町





妻後宿は、入り口付近が下町、そして中町、上町と続き
一番京都側が寺下と呼ばれている

本陣1、脇本陣1、旅籠31軒であったが
町全体としては総家数83軒と少なく、木曽11宿では一番小さい宿場であった
ほとんどが宿場関係の従事者であった

従って、明治になり宿場が廃止されると
急速に寂れてしまった

それが、却って昔の宿場の姿を留めたまま残され
日本で白川村、京都の産寧坂と並んで、最初に
国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された


(長野県南木曽町妻籠)



歴史資料館
・本陣跡・郵便資料館








上の写真が脇本陣とあったところで、木曽路歴史資料館となっている

中の写真が本陣跡である
島崎藤村の母ぬいはこの妻籠本陣の出である
前述の藤村の次兄島崎広助は、ここに養子に入っている

下の写真は、島崎藤村の「夜明け前」にも開局当時の様子が描かれている
妻籠郵便局である

今は郵便資料館となっている
全国で唯一の黒いポストが復元されている


(長野県南木曽町妻籠)



妻籠宿・枡形跡






さらに進むと、道は枡形になっている
上の写真の石畳を下る道が旧中山道である

古い旅籠が軒を連ねているところだ


(長野県南木曽町和合)



妻籠宿・寺下町






光徳寺の階段の下の地区を寺下と呼び
妻籠宿の復元はここから始まった

2階が張り出している出梁(だしばり)造りで
細い格子(縦繁格子、たてしげごうし))の並ぶ家並みが続いている


(長野県南木曽町妻籠寺下)



光徳寺






旧中山道左手の階段を上ったところに光徳寺がある

まるで城砦のような石垣と建物であった
天正11年(1583年)に建立されたという

墓地には本陣島崎家と脇本陣林家の代々の墓がある

境内にある樹齢300年の枝垂れ桜に下弦の月をあしらってみた


(長野県南木曽町妻籠寺下)



旅籠・松代屋







冬の日は短い
あっという間に、辺りは真っ暗となった

江戸時代から営業している旅館「松代屋」(2枚目の写真の左から2軒目)に泊まった

さすがに夜は冷えた
一風呂を浴びた後
炬燵に入っての夕食前の熱燗は効いた

宿の料理は鯉料理が自慢であった


この辺は古い町並みが見事なほど残されている地域である
時代劇の撮影場所としても重宝がられているところだ

松代屋の上がり口に飾ってある写真は
勝新太郎の「座頭市」である
その他大川橋蔵の「この首一万石」等もここで撮影されている


(長野県南木曽町妻籠寺下)

0612/0612

歩行略図

歩行距離 3.55km
(青線部を歩行)






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作者 Hitosh


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