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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 46

赤坂〜美濃国分寺


作者 Hitosh



赤坂宿2


美濃赤坂駅前通り、八幡神社







新幹線(東京発6:36)を名古屋でおり、東海道線で大垣まで来た
電車が行楽客で趙満員であったのには驚いた

大垣駅で美濃赤坂行きのホームがわからず駅員に聞いた
なんと一つのホームに1,2,3番線とあり、
3番線が美濃赤坂行きであった

3番線は1、2番線のホームの先端でホームの幅を削って
そこに折り返しの電車が入るようになっていた(上写真)
美濃赤坂行きは2両編成の新しい電車であった

大垣で乗換え、美濃赤坂に着いたのは9:25であった
駅前の通りを北上し、旧中山道に復帰した

丁度「赤坂まつり」(4月第2日曜日)であった
山車と神輿が出て、町内を練り歩くとのこと


(岐阜県大垣市赤坂町)



矢橋家・脇本陣跡





下の写真の左手の石柱に「赤坂宿脇本陣跡」と彫られている
ここは、今は榎屋旅館として営業している

旧街道は未だ祭りの準備中であった


(岐阜県大垣市赤坂町)


五七処とお嫁入り普請探訪館





五七処(ごしちどころ)は、赤坂宿の宿場の駅・お土産屋さんである
前述の五七川にちなんで、江戸より57番目の宿場と言う事で五七処となっている
正確に言うと、56番目の宿場である
(江戸を1番と数えると57番目となる)

五七焼き菓子、五七饅頭、五七寿司等が売られていた


下の写真の右側の建物は
「お嫁入り普請探訪館」である

写真では解りにくいが、街道から見ると2階建てであるが
奥に行くと傾斜がついて1階建てとなっている

是は、お嫁入り普請と呼ばれ
皇女和宮の行列がここを通る時(文久元年、1861年)
宿場が余りにもみすぼらしいので、街道に面した建物を
街道から見たとき2階建てに見えるように改築したためと言う

平屋の建物、54軒を一度に改築したというから大事であった


(岐阜県大垣市赤坂町)



子安神社



丁度子供神輿と山車が渡御開始の時であった

境内に生える竹を切って産刀を作ると安産になると伝えられている
紅白の旗は、この地域を表す旗とのことであった

歩いていると、あちこちでこの旗を見かけた


(岐阜県大垣市赤坂町)


兜塚



さらに進むと左手の小さな岡の上に兜塚がある
此の辺が赤坂宿の西木戸であった

関ヶ原の合戦の前日、杭瀬川の戦いで戦死した、東軍の中村隊の武将
野一色頼母(のいっしきたのも)の死体と鎧、兜を埋めたので兜塚と呼ばれるようになった

なお、赤坂宿の左手には、関ヶ原の戦いの時
家康が最初に本陣を置いた山(標高50m)がある

当時は岡山と呼ばれていたが
勝利後は勝山と呼ばれるようになった



(岐阜県大垣市赤坂町)



西濃鉄道昼飯線



さらに進むと、西濃鉄道昼飯(ひるい)線の踏切を渡る
前方の山、金生山(きんしょうざん)より石灰を運ぶ貨物専用線である

赤坂は江戸時代後期より石灰の一大産地であった

また、金生山からは古生代の化石が豊富に出土しており
化石の宝庫としても世界的に有名とか

出土した化石を保存展示している金生山化石館が麓に出来ている


(岐阜県大垣市赤坂町



昼飯大塚古墳







赤坂町を抜け、昼飯(ひるい)町に入ると、左手に大きな古墳があった

昼飯大塚古墳で、国史跡に指定されている
古墳時代前期の前方後円墳である

下の写真は昼飯町集落である

説明板によると、昔、仏像を長野の善光寺に運ぶ途中、ここで昼飯を食べたことによるとか

最初は「ひるめし」と呼んでいたが、その名が品が無いと言うことで
「ひるいい」と呼ぶようになり、さらに言いやすいように「ひるい」となった由

なんとも早、楽しい地名である



(岐阜県大垣市昼飯町


照手姫水汲み井戸



昼飯町を抜けると青墓町となる

写真は照手姫水汲み井戸である
江戸前期に流行った浄瑠璃「小栗判官」の後日譚の舞台である

この地に売りとばされ、ここで水汲みをやらされたとのことである
中を覗くと、今でも水が沸いていた


(岐阜県大垣市青墓町



青墓のよし竹、円願寺跡






街道右手によし竹、円願寺跡の標柱がある

平治の乱で源氏が敗れた後、平泉の金売り吉次一行と共に
牛若丸がここにあった円願寺(現在は廃寺)に立ち寄った

この地で果てた、父義朝や兄の義平、朝長の霊を供養し
源氏再興の祈願をしたという

その時、手にした葦の杖を地面に挿し、牛若丸が詠んだ歌が
「さしおくも 形見となれや 後の世に 源氏栄えば よし竹となれ」

以来、この寺をよしたけあんと呼ぶようになった由

写真左手は照手姫の墓「小篠竹の塚」である
尚、源義朝等の墓はここより北2kmの円興寺跡にある

それにしても青墓町とは、歴史の重みを感じる地名である

青墓町を出ると前方に伊吹山が見える(下写真)
すっかり雪も消えていた


(岐阜県大垣市青墓町



美濃国分寺跡





青墓町の次は、青野町である
美濃国分寺のあったところである

国分寺跡は、広々とした史跡公園となっている

奈良時代の美濃国分寺跡が発掘され
基檀や土塁が復元されていた

また、出土品や民族資料を集めた大垣市の歴史民族資料館が建てられている


(岐阜県大垣市青野町



青野一里塚




旧中山道に戻ると、青野の一里塚跡がある
この辺一帯は、南北朝初期の激戦地となったところだ

建武5年(1338年)、北朝の足利軍主力(高師直)と南朝の北畠顕家軍が激突したところである
この時は、北畠軍が勝利している

一里塚を過ぎると、程なく中山道57番目の宿場・垂井宿となる


(岐阜県大垣市青野町)
0704/0705


歩行略図

歩行距離 4.13km
(青線部を歩行)




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作者 Hitosh


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