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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 52

62番場宿〜63鳥居本宿


作者 Hitosh



米原・河南


河南集落





醒ヶ井宿を出ると、右に伊吹山が大きく見える
すっかり、山の雪が融けてしまった

河南(かわなみ)の集落に入ると、古い民家を利用した歩行者のための休憩所があった
「いっぷくの場」と書かれており、ベンチが置いてある

ここで、中高年の夫婦と、男性の街道歩きの人と出合った
同じく、旧中山道を、京都を目指して歩いている人達である

同好の士との情報交換は楽しいひと時であった


(滋賀県米原市河南)


62番場宿


久札一里塚





名神高速道路と北陸自動車道の分岐する米原ジャンクションの下を潜ると
久札(くれ)の一里塚跡がある

旧中山道は左で、右は米原道となる

ここから緩い坂を下ると、中山道62番目の宿場・番場(ばんば)宿である


(滋賀県米原市久礼)



62番場宿





番場宿に入った
1枚目の写真が番場宿の入口(江戸方見附)、2枚目が本陣跡で、その先に脇本陣、問屋場があった

ベンガラ塗りに設楽焼きの狸と、まさに近江らしい家である

なお、番場宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋10軒で
中山道では一番小さな宿場であった


(滋賀県米原市番場)



蓮花寺・西方見附






1枚目の写真が蓮華寺入口である
蓮華寺の本堂裏手には長谷川伸の「瞼の母」で御馴染みの番場の忠太郎碑があるところだ

元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の六波羅探題の北条仲時主従432人が自決した寺である
裏の山腹にその群墓(大小の五輪塔がぎっしりと建っている)が今でも残されている

この年、終に鎌倉幕府が滅亡した

2枚目の写真は番場宿の出口(京側見附)付近である
前方を歩く二人も、やはり京都を目指していた


(滋賀県米原市番場)


63鳥居本宿


小摺針峠





小摺針(こすりはり)峠を越えると、滋賀県の彦根市に入る
低い峠で、快適な街道となっている

前方は峠の集落である

なお、この小摺針峠の下は名神高速道路の米原トンネルとなっているところだ


(滋賀県彦根市中山町)



摺針峠、神明宮、望湖堂





小摺針峠、そしてこの摺針峠を越えると鳥居本宿である

この峠の頂上には茶屋の望湖堂があった処である
当時は、ここから眼下に琵琶湖が見下ろせたという

今は干拓が進み、湖は遠くなってしまった

なお、地名の磨針は、老女が針を作ろうとして斧を摺っていたことによるという


(滋賀県彦根市中山町)



北国街道・追分





磨針峠を下ると、北国街道(ほっこく、現国道8号線)の追分にでる

北国街道(北陸街道)は、ここから栃の木峠を越え
新潟までの全長約520kmの街道である

旧中山道はこの8号線に合流し、再び直ぐ左の細い道に入る


(滋賀県彦根市下矢倉町)



63鳥居本宿






中山道63番目の宿場・鳥居本(とりいもと)宿の入口付近である
茅葺の家が、まだ残されていた

なお、地名の鳥居本は文字通り元鳥居があったからとのこと

木曾路名所図会に「多賀大社の鳥居、此の駅にありしより名づくる 今はなし」と
記されているところである


(滋賀県彦根市鳥居本)


赤玉神教丸





鳥居本の宿場に入り、桝形のところに
赤玉神教丸(あかだましんきょうがん)で有名な有川製薬がある

赤玉神教丸は胃腸薬で
下痢、腹痛、食べ過ぎに良く効いたという
今も製造販売している

多賀大社の紳教により調合されたことから神教丸と呼ばれるようになったとか

鳥居本宿の名物はこの赤玉神教丸と鳥居本合羽(かっぱ)の二つであった


滋賀県彦根市鳥居本)


63鳥居本宿





1枚目の写真が、元の木綿屋嘉右衛門の店で
道中合羽を模した木の看板が店先に釣り下がっている

江戸後期で15軒も合羽を扱う店があったという

この合羽は、楮紙(こうぞし)に柿渋を塗って
耐久性を増し、雨を防いだとのこと

道の反対側に本陣、脇本陣があった
鳥居本は本陣1、脇本陣1、旅籠屋35軒の宿場であった



(滋賀県彦根市鳥居本


近江鉄道・鳥居本宿



今回は、ここで街道歩きを中断して
近江鉄道の鳥居本駅より彦根に向かった

彦根城や旧城下町を見て、彦根のホテルに泊まった


(滋賀県彦根市鳥居本)

0704/0706


歩行略図

歩行距離 8.33km
(青線部を歩行)




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作者 Hitosh


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