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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 53

鳥居本宿〜64高宮宿


作者 Hitosh



鳥居本


鳥居本駅





近江鉄道の鳥居本駅ホームである

彦根のホテルを5:30に出立
鳥居本駅に着いたのは朝の6:17であった

駅前より旧中山道に復帰した
まだ、人も車も殆ど通っていなかった


(滋賀県彦根市鳥居本)


鳥居本宿



旧中山道沿いは、古い町並みが続いている

上の写真は名物の鳥居本合羽屋である
微かに「松家商店」と読めた

道中合羽を模した木の看板が目につく造りである

蛇足ではあるが
この合羽というのは、ポルトガル語で、雨よけの外套のことである


(滋賀県彦根市鳥居本)



彦根道追分



さらに街道を進むと、右彦根道と彫られた道標がある
この道が彦根への道で、また朝鮮人街道であった

朝鮮人街道とは、彦根、安土、近江八幡を経て野洲(やす)までの街道である
将軍上洛の道であり、また朝鮮通信使一行の通った道でもある

大勢の行列の場合、近江八幡や彦根の方が設備も良く、収容人員も多かったからという


(滋賀県彦根市鳥居本)



鳥居本宿西方見附



鳥居本宿の西方見附付近である

鳥居本宿を出ると、見通しの良い平坦な路となる
辺り一面、水田の広がるところだ

次の高宮宿までは約6kmの道のりである


(滋賀県彦根市鳥居本)



小野・集落





鳥居本宿と次の高宮宿の略中間にある小野の集落である

古代から江戸初期まではこの小野が宿場であった
今でも重厚な家並みが続いている


(滋賀県彦根市小野町)



小野小町塚



江戸時代の「木曾名所図会」にも紹介されている小町塚である

小野町の説明板によると、小野好美が奥州最上の任地に向かうとき
ここで宿泊し、住人から一人の生後間もない娘を貰いうけたという
その娘が後の小野小町であった

なお、福島県の小野町にも同様の伝説が残されている


(滋賀県彦根市小野町)


64高宮宿


石清水神社





芹川に架かる大堀橋を渡ると、右手に一対の大きな常夜灯がある
岩清水神社である

この階段の途中に扇塚がある

江戸からやって来た喜多流能の宗家9世の喜多古能(このう)が
彦根を去る時に残していった愛用の能の面と扇を
弟子達がここに埋め塚を建てたという


(滋賀県彦根市大堀町)



64高宮宿入口






岩清水神社を過ぎると、すぐ近江鉄道の踏切がある
ここが中山道64番目の高宮宿の入口である


(滋賀県彦根市高宮町)


高宮神社・布惣跡





宿場に入ると右側に高宮神社がある
創建は鎌倉時代末期とのこと
当時は山王権現と呼ばれていた

この前が高宮布(近江上布、高宮嶋とも)を商う布惣跡である
高宮布は粗い麻布のことで、高宮が主産地であった

当時は7つの蔵があり、集荷、出荷を年に12回以上行ったという
今でも5つの蔵が残されている

「続膝栗毛木曾街道」にも出てくるくらい有名であったようだ

なお、惣とは室町時代の村人の自治共同体のことである


滋賀県彦根市高宮町)


64高宮宿







高宮宿は今でも、往時の面影を残している町並みである

宿場町として、また多賀神社の門前町としても賑わった町である


(滋賀県彦根市高宮町


大社鳥居



街道に面して、宿場の中央に大きな鳥居がある

高さ11mもあり、寛永11年(1634年)に建て変えられたものである

ここから多賀神社までは約3kmで、ここが一の鳥居となっている

多賀神社は古事記にも出てくる延喜式内社で
美濃や近江の人々に「お多賀さん」と親しまれているとのこと

写真右の常夜灯は石の階段付きの立派なものであった


(滋賀県彦根市高宮町


本陣表門・脇本陣跡







大鳥居の前を過ぎると、宿場の中心となり本陣と脇本陣があった
上の写真は本陣跡で、当時の表門がそのまま残されている

高宮宿は本陣1、脇本陣2、旅籠屋23軒もあった


(滋賀県彦根市高宮町


むちん橋



犬上川に架かる高宮橋である
ここが高宮宿の西見附であった

当時はこの橋を無賃橋と呼んでいた
宿場の住人が金を集め、架設して旅人に無料で使用させたという

この無賃橋を渡ると、次は65番目の宿場・愛知川宿となる
約2里(8km)の道のりである


(滋賀県彦根市高宮町)
0704/0706


歩行略図

歩行距離 6.68km
(青線部を歩行)




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作者 Hitosh


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