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旧中山道六十九次 ぶらり徒歩の旅 56

五個荘〜66武佐宿


作者 Hitosh



五個荘


清水鼻名水





天秤の里、五個荘を出ると、今までの東近江市から安土町に入る
その手前にあるのが、この清水鼻名水である

「続膝栗毛 木曾街道」でも記述されているところだ
この辺りに立場があった

野次さん喜田さんがここでお金を盗まれそうになったところである
ここの名物は茗荷と焼米であったとのこと


滋賀県東近江市五個荘町


安土


石寺水田



清水鼻の名水を過ぎると、旧街道は安土町に入る
実に広々とした田圃が広がっている

遠く見えるのは石寺の集落である


(滋賀県安土町石寺)



老蘇の森・奥石神社





東海道新幹線のガードを潜ると、目の前に老蘇(おいそ)の森が見えてきた
古代から、歌枕として有名なところだ

ホトトギスや老いの悲哀などを掛けて多くの歌が詠まれている
なお老蘇とは、老いてますます元気の意とか

兼好法師
 「のがれえぬ 老曽の杜の 紅葉ばは ちりかひくもる かひなかりけり」

藤原定家
 「世やはうき 霜より霜に 結びおく おいその杜の もとのくち葉は」 

老蘇の杜の中には延喜式内社の奥石(おいそ)神社がある
この社殿(下の写真右)は織田信長の寄進とのこと


(滋賀県安土町老蘇)



東老蘇集落・轟橋





奥石神社の門前町でもある東老蘇(おいそ)の集落
轟(とどろき)橋の袂に、「轟地蔵」址の石碑

平安時代の俗謡に
「近江におかしき歌枕 老蘇轟 蒲生野(がもうの)布施の池 〜」
とあることから、轟地蔵と名づけれたとか

轟橋の袂に轟地蔵跡碑がある
轟地蔵は、福生寺に今も保存されているとのこと


(滋賀県安土町東老蘇)

66武佐宿

近江八幡市



やがて街道は近江八幡市西生来町に入る
実に広々とした水田地帯である

今でも条里制の跡が残る穀倉地帯である
遠くを平行して新幹線が走っている


(滋賀県近江八幡市西生来町)



武佐神社・高札場跡





中山道66番目の宿場、武佐宿の東見附付近である

上の写真は入武佐宿入口にある武佐神社だ
この神社の前に東の高札場があったとのこと


(滋賀県近江八幡市武佐町)



武佐宿脇本陣跡






上の写真は武佐宿の脇本陣の跡で
下の写真は、武佐宿の家並みである

武佐宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋23軒であった


(滋賀県近江八幡市武佐町)



武佐宿・伝馬所、本陣、旅籠








今の武佐郵便局のあるところがかつて本陣(2枚目写真)のあったところだ
その右手は、伝馬所のあったところである

その向かいには旧旅籠の中村屋があり、今も営業している


(滋賀県近江八幡市武佐町)



近江鉄道武佐駅



近江鉄道武佐駅の前である
ここで街道は枡形になっている

西方の見附のあったところだ
街道はこの先の踏切を左に曲がっている


(滋賀県近江八幡市武佐町)



楠の巨木




近江鉄道の武佐駅の踏切りを渡ると、街道は再びまっすぐな一本道となる
次は67番目の宿場・守山宿である

写真右手の楠の巨木は、伊庭貞剛(いばていごう)の屋敷跡に残るものだ

伊庭家は、近江守護佐々木家の流れを汲む名家
近年になって、長屋門を構えた広大な建物は解体され、楠だけが残されたとのこと


(滋賀県近江八幡市西宿町)

0704/0706


歩行略図

歩行距離 5.95km
(青線部を歩行)




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作者 Hitosh


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