紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 85
富久山町久保田〜42福原宿入口
Hitosh
久保田・行健小学校 三春街道(現国道288号線)の追分を過ぎると左側に郡山市立行健小学校がある。創立は古く明治6年で、当初は久保田小学校といい、前述の阿弥陀寺の本堂が校舎がわりであった。 現在の校名は、大正11年に中国の「易経」の「天行健 君子以強不息」より命名されたという。常に心を引き締めて全力で自分を磨き、天の運行のように怠らないの意味のようだ。 |
福原 42福原宿入口 |
地名が富久山町久保田から福原に変わる。 この辺が、旧奥州街道の42番目の宿場・福原宿の入口付近であったようだ。 写真右の富久山郵便局の地名は富久山町福原字一里坦となっている。 |
一里坦跡 郵便局のすぐ北側に「史蹟一里坦跡」と刻まれた石柱が建っていた。一里塚跡である。 坦は「たいら」という意味の字だ。この一里坦がそのまま小字名となっている。 |
豊景神社 |
街道を挟んで反対側に豊景神社(とよかげ)がある。 祭神は豊斟淳命(とよくむぬのみこと)と鎌倉権五朗景政となっている。 永保3年(1083年)後三年の役と途次、 源頼家は当地が毒蛇の禍で凶作に苦しんでいるのを知り、 武勲の誉れ高い鎌倉権五朗景政に命じて退治させた。 その後、凶作もなく暮らしも安定したので、感謝の念から天養元年(1144年)に 景政の御霊を合祀し、御霊宮とした。 以前は中世の古街道沿いにあったものを、徳川家康の街道整備政策による 新街道(仙台松前道)造成のおり、現在地に移されたようだ。 ここの、江戸時代から続く太々神楽は福島県の重要無形文化財に指定されている。 |
本栖寺 |
豊景神社の北側に隣接した本栖寺(ほんせいじ)には、中世の板碑が集められている。 また幕末から明治の画家A沢(えびさわ)耕山の墓がある。 寺の由緒によると、元弘元年(1332年)に福寿寺が開山され、 永世元年(1504年)三春に移転した。 その跡に建てられた寺であるため、元福聚寺が栖んでいた寺という意味で、 本栖寺と名付けられたという。 なお、明治7年にこの寺に福原小学校が創建され、 後に前述の久保田小と合併し行健小学校となっている。 |
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