紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 190
蔵王町・59宮宿
Hitosh
福岡交差点 |
旧道と国道4号線が合流し、少し進むと白石市から蔵王町に変わる。 手前の大泉記念病院の住所は白石市福岡深谷字一本松で、 となりの洒落た店作りの「湯麺茶屋」は苅田郡蔵王町宮字一本松西である。 蔵王町は昭和30年に宮(みや)、円田(えんだ)村が合併して出来た町だ。 大泉記念病院は、病床192床の総合病院である。 岩手県江刺谷堂の医師大泉高春(宗玄)が、岩谷堂伊達家の姫の典医として、 現在の宮城県岩出山に移住したのが始まりのようだ。 明治19年に刈田郡蔵王町宮に大泉医院を開業し、 平成17年にここに移転したとのこと。 |
宮交差点 |
さらに進むと宮交差点になる。 奥州街道59番目の宿場・宮宿はここで国道4号線より別れ、左折である。 なお、左の道は県道12号線で、この先に蔵王エコーラインがあるところだ。 |
宮宿入口・石塔群 |
宮宿の入口の微かに痕跡の残る枡形の所に、石仏、石塔が集められていた。 大きな石塔には蠶供養塔と大きく書かれてあった。 この「蠶」の字は読めなかった。調べてみると「蚕」であった。 その他、五輪塔や、弘化4年(1848年)と刻まれた蠶影山(こかげさん)大権現(蚕の神様)、 馬頭観世音、庚申塔、そして小さな蠶供養塔等が整然と並べられていた。 養蚕が盛んであったことが覗わせられる。 現在は廃れ、その代わりツルムラサキの出荷高は日本一とのこと。 また、桃や梨、うどが名産となっている。 |
記念碑 街道左手宮小学校の入口にある小野訓導殉職記念碑がある。大正11年、宮城県女子師範学校(現東北大教育学部)を卒業して宮小学校に赴任した小野さつき先生の殉職記念碑である。 記念碑の篆(てん)額は当時の文部大臣鎌田栄吉である。 |
小野先生が赴任した年の7月、担任の4年生を連れて白石川の畔の野外活動に出かけた際、 3人の児童が間違って川に入り溺れたので、2人までは助けた。 もう一人の子を泳いで助けにいったが、激しい流れで力尽きて流されてしまったという。 先生の年齢はわずか22歳、その行為は日本中に広がり、 文部大臣からの特別表彰となった。 殉職記念資金募集の話が出ると、全国より2萬円(現在だと3300万円)の寄付が 集まったとのこと。 |
59宮宿 |
奥州街道59番目の宿場、宮宿である。 この先の街道左側にある刈田峰(かったみね)神社が、地名の由来となっている。 祭神は日本武尊で、神社の北西に聳える青麻(あおそ)山を信仰の対象とし、 白鳥伝説と結びついて白鳥神社とも呼ばれている。 |
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