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朝鮮人街道 1

旧中山道・守山宿〜野洲


作者 Hitosh




旧中山道、守山宿




旧中山道の67番目の宿場守山宿から分岐し
野洲、近江八幡、安土、能登川、彦根を経て
中山道の鳥居本宿で合流する全長約31kmの街道が
朝鮮人街道と呼ばれていた

家康が関ヶ原の戦いで勝利し凱旋した街道で
その後は将軍の上洛用に使われた道だ

その道を朝鮮通信使が通行したことから
朝鮮人街道と呼ばれるようになった

朝鮮通信使は江戸時代に前後12回に及んでいる
将軍の代替りの時、朝鮮から慶賀を目的とした訪問である

信(よしみ)を通わす使節の意から
通信使と呼ばれていた

約500人もの使節団で、日本からの警護や荷役の人を合わせると
2000人を越える大所帯であった

この街道は、その人数を賄える道でもあった
昼食所としては近江八幡の本願寺の八幡別院が使われ
宿泊は彦根の安永寺であった


☆ ☆

ここ守山宿は中山道67番目の宿場で
本陣2、脇本陣1、旅籠30軒の宿場であった

「京立ち守山泊まり」と言われ
早朝、京都を出発し、ここで最初の宿をとることが多かったところだ

京都三条大橋から、ここまでは32.1kmである


(滋賀県守山市)



野洲川と近江富士



守山宿を抜けると、大きな川となる
近江最大の川、野洲(やす)川である

左の形の良い山は近江富士と呼ばれている
三上山(みかみやま、標高432m)だ


(滋賀県野洲市行畑)



背くらべ地蔵



野洲の行畑(ゆきはた)にある「背くらべ地蔵」
鎌倉時代のものという

大小二つの地蔵が並んで建っている

子供達がお地蔵さんと背比べをして、右の小さい方の
地蔵と同じくらいの背になれば一人前と言われたとか

ここで毎年7月に「行畑地蔵まつり」が行われている


(滋賀県野洲市行畑)


行事神社





背くらべ地蔵の裏手にある行事神社である

珍しい注連縄(しめなわ)が下がっていた
この辺では「勧請縄」あるいは「勧請吊り」と言うそうだ

全国的には「道切り」と言われているものだ
村に悪霊や疫病神などが入ってこないように、縄を張り
境を守る標(しるし)を村の境に置くという

それが発展して、五穀豊穣、村内安全などの願いが
込められるようになったようだ

注連縄の中央の標は、地方により造りが異なっている


(滋賀県野洲市行畑)


街道筋



行事神社を過ぎると、旧中山道から別れ
朝鮮人街道は、野洲、近江八幡に向かう道となる

略、現在の県道2号線沿いである


(滋賀県野洲市行畑)



朝鮮人街道追分、外和木の標





ここから朝鮮人街道は中山道から分岐(実際は西180mの所)して
近江八幡に向かうところである

地名に因んで外和木の標と名付けたとのこと
背後の建物は野洲小学校である


(滋賀県野洲市行畑)



野洲






野洲の市街とJR野州駅である
朝鮮人街道は、野州の駅付近を通り近江八幡に伸びている

なお、野州は近江富士で知られた三上山と鏡山の山麓にある町である
延喜式にも出てくる古くからの宿場であったところだ


(滋賀県野州市)
0705/0802



略図

経路 青線部




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作者 Hitosh


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