紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 608

七戸町・七戸城跡


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七戸町

七戸宿旧家
  七戸役場に隣接して右側(北側)にある七戸城跡を背後にした小さな祠。地元の方がお参りしていた。


七戸城跡/柏葉公園

七戸町役場の左側(南側)から、七戸城跡に入る。

七戸城は、東西400m×南北350mほど、
内部は堀で区画された主郭・二の郭・北館・西館・角館・下館・宝泉館の7郭を
並列連郭式に並べた単純な構造になっている。

南北朝時代の南部政長の築城と伝えられているが、
考古学的な調査の結果から14世紀後半の南部政光により
築城されたと推測されている。

下って、天正19年(1591年)、城主七戸家国は、九戸政実の乱で加担して滅び、
翌天正20年廃城となったが、津軽に対する備えから、
五戸町浅水城主南部直勝に名跡を継がせ、その子七戸隼人直時を
七戸2000石の城主とした。

寛文4年(1664年)、七戸城に封じられていた27代南部利直の5男重信が、
南部本家29代を継ぐことになり、ここは藩の直轄地となった。、
そして、城内に代官所が置かれ、幕末まで続いている。

七戸城跡は、昭和16年に国の史跡に指定され、
現在は柏葉公演として整備されている。



七戸神明宮

七戸城跡本丸跡にある七戸神明宮。

応永3年(1396年)、南部政光が勧請したのが始まりと伝えられている。
当初は新町にあったが、宝暦6年(1756年)に南町、
文化8年(1811年)には、七戸城の東側(現七戸役場付近)に移され、
明治14年に現在地の本丸跡に遷座されている。

創建以来南部氏に崇敬され、七戸町の総鎮守となっている。



慰霊碑

さらに奥に入ると、二の丸跡付近に、
祠と、日清日露大東亜戦役の英霊之塔が建立されている。



七戸城案内板

七戸城跡にある七戸城跡全体図、説明板だ。

絵地図入りで城跡が詳しく紹介されてあった。
かなり規模の大きい城であったようだ。


(七戸町 七戸 森ノ上 貝の口)
1205/1401

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歩行略図
七戸町境~七戸宿~七戸十和田駅~中野分岐



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