紀行写真集


旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 81

41郡山宿上町



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41郡山宿


41郡山宿・中町

宿場特有の枡形を通ると、郡山宿の中心街(中町)となる。

文政年間(1818〜30年)には、人口3900人、旅籠の数は40軒以上あった。
本陣今泉家は、現在の和久屋ビルの一画にあり、
二本松藩の安積三組(郡山組、片平組、大槻組)の代官所跡は、
写真右手の現うすいデパートの裏手にあったようだ。

善導寺
  街道左手にある光明山善導寺は浄土宗名越派で、創建は天正7年(1579年)とのこと。
  慶應4年(1868年)の兵火で消失し再建されたが、明治33年の大火で消失、現在の本堂は大正2年に再建されたものだ。
  この寺の左奥に、如宝寺があり、承元2年(1208年)の石造笠塔婆と建治2年(1276年)の板石塔婆は、国指定の重要文化財となっている。
安積国造神社
  左側に安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)がある。創建は、13代成務天皇5年(135年)。勅命により、比止禰命(ひとねのみこと)が、安積国造(あさかのくにのみやつこ)に任ぜられ、当時未開であったこの地を開き治めた時、社稷(しゃしょく)の神として祀ったのが始まりとか。
  坂上田村麻呂が東征の際、八幡大神が合祀され八幡宮とも呼ばれている。なお、現在の拝殿は文化7年(1811年)に再建されたものである。


郡山道路元標と山水道

安積国造神社の参道入口付近にある郡山道路元標(写真中央左石塔)である。
江戸時代は木製で、奥州街道の道標(みちしるべ)として、
江戸や会津までの距離が書かれていた。

その後、今の御影石に建て替えられたもので、
今でも秋祭りの際の神輿の宮入りの基点となっている由。

写真右側は、山水道である。
江戸期初期の郡山宿の飲料水は、水田灌漑用の皿沼の土手下に水箱をおき、
受け口から竹をつないで地下に埋め、各家に引いていた。
その後、町の人口が増えたため、明和年間(1760年頃)、宿場の商家達が自弁で、
現在の清水台、虎丸一帯の湧水の地に井戸を掘り、山水道を引いた。

山水道は、地下を木管、竹管で継ぎ、商家の屋敷内まで引き水井戸を作って利用した。
この山水道を導入した商家の水井戸から、近所の人に自由に水を汲ませたという。
これが郡山の風物詩「貰い水」であった。



郡山大町交差点

大町交差点である。
この信号を右折するとJR東北本線の郡山駅がある。

江戸時代は、この大町交差点より南側(手前)を上町、北側を下町と区別して読んでいた。



(福島県郡山市本町、中町、大町)
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歩行略図
安積永盛駅〜39日出山宿〜40小原田宿〜41郡山宿〜逢瀬川



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