紀行写真集



旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 136

福島・大森川〜荒川(旧須川)




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福島


大森川上流

大森川に架かる荒川橋より上流側を見た写真である。
遠く雪を被った吾妻連峰と手前の高架は東北新幹線である。

中央の真っ白な三角形の山が吾妻小富士(1705m)である。

子供が小さい時、一緒に頂上まで登ったことがある山だ。
始めて見る火口に驚いていたことが、昨日のように思い出された。


街道/南町
  大森川を渡ると南町に入る。城下町の南側にある町であるから、南町となっている。右のイエローハットの後ろには、市立福島第1中学校のあるところだ。 


信夫橋/荒川

大森川(旧荒川)に続いて、今度は現荒川に架かる信夫橋を渡る。

吾妻連峰高山(1805m)の西に位置する鳥子平を源流とする川だ。
もとは須川と呼ばれたが、荒川の流路が変わり須川と合流した為、
今は荒川と呼ばれている。

江戸時代は、この須川(現荒川)を渡ると、福島の城下町であった。
そのため、江戸時代は本格的な橋は架かっていなかった。
浅瀬に板を渡しだけのもので、須川のガンタラ橋と呼ばれていたようだ。

初代の信夫橋は、明治7年に完成した木橋であった。
明治16年の豪雨で流され、明治18年に完成したのが石橋で13連の眼鏡橋であったが、
明治24年の記録的な豪雨で流されてしまった。

現在の信夫橋は4代目で、昭和7年に竣工した鉄筋コンクリートの橋ある。


荒川下流側

信夫橋から下流を見た写真である。すぐ先が阿武隈川との合流点である。
この合流点の左が御倉町で、かつての福島河岸のあったところだ。

右の小さな山が弁天山(142m)である。

弁天山は、かつて山椒大夫の安寿と厨子王が住んでいたといわれる椿館跡が
あることから椿山とも呼ばれている。
父である奥羽五十六郡の太守岩城判官正氏の館のことだ。

思えば旧丹後街道を歩いていた時、山椒大夫の屋敷跡に立ち寄ったことがある。
天橋立のある宮津に近い丹後由良であった。
(参照:「旧丹後街道」/街道写真紀行)

ここ福島から見ると、遙か西の彼方である。


柳稲荷
  荒川を渡ると右側の橋の袂に、柳稲荷がある。享保年間(1684〜1688年)の荒川氾濫で町が流失寸前のとき、稲荷のご神体が流れてきて、人々を救ったという。
  神殿は、明治14年の甚兵衛火事(福島大火)で焼失し、現在のものは昭和8年に再建されたものだ。
  柳稲荷の右には古峯神社と書かれた石柱があった。下野国(栃木県鹿沼市)の古峯神社の末社が、ここにあるとは思わなかった。 
  甚兵衛火事のあとの明治21年に、火防の神として知られた古峯神社を勧請したようだ。

柳稲荷由来碑

  柳稲荷の左側にある石碑には、柳稲荷の由来と、この辺が福島城下町の入口で、近くに枡形番所があったと刻まれてあった。
  いよいよ福島城下町で、旧奥州街道51番目の宿場だ。なお、ここの標高は66.5mである。

(福島県福島市南町、柳町)
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歩行略図
福島・JR南福島駅〜51福島宿〜福島城跡〜信夫山



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