紀行写真集
旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 232
仙台城下・一番町〜芭蕉の辻(札の辻)
Hitosh
南町通り交差点 |
旧街道(国分町通)を北上していくと、繁華街に入ってくる。 ここは南町通りとの交差点で、左側にホテル・パークシティのあるところだ。 |
南町道標 左手NTT東日本の前に南町の道標があり、側面に電話横丁と刻まれてあった。 |
青葉通り |
青葉通りとの交差点で、写真は交差点より左側の青葉通りを見た写真である。 この道を真っ直ぐ進むと青葉城があり、反対側(手前方向l)は仙台駅である。 ケヤキ並木が見事で、杜の都・仙台の象徴となっている道であるが、 この道は第二次大戦後の都市計画で出来た新しい道である。 |
道標、芭蕉の辻(札の辻) |
青葉通りの交差点を過ぎると、旧奥州街道(現国分町通り)と大町(おおまち)通りの 交差点となり、かつては芭蕉の辻と呼ばれたところで、この道を行くと青葉城大手門の あるところだ。 そして、右側は新伝馬町、名懸丁と続いて、その先は旧陸奥国・多賀城、 仙台の外港である塩竃港、松島、東回り航路の石巻へと続いていた。 この芭蕉の辻は、江戸時代の仙台城下の中心であった十字路で、 宮城県の道路元標(里程元標)が設置されている。 仙台の城下町は大手門から大手筋(大町の街路)とこれに直交する奥州街道を基準に 町割りが行なわれ、大町と国分町の両町が城下の経済の中心であった。 辻には制札場(高札場)があり、当時は「札の辻」と呼ばれていた。 仙台藩の威信を示す為、この四つ角総てに城郭風の高楼を備えた同じ形状の建物が 造られ、建物の一階部分は普通の商家の造りとなっていて、地元の豪商に貸与されていた。 その後、芭蕉の辻と呼ばれるようになったが、これは松尾芭蕉との関係では無かった。 伊達政宗の間諜として働き、恩賞として、この辻の四隅の建物を授かった 芭蕉と言う虚無僧が住んでいたからとのことのようだ。 写真の道標元標(里程元標)には、 「南 江戸日本橋迄 六十九次九十三里、奥州街道」、 「北 津軽三厩迄 四十五次百七里二十二丁」と刻まれてあった。 換算すると、日本橋まで約366km、次の目標である三厩まではの距離は423kmである。 よくここまで無事に歩いてきたものだと、一人感心すると同時に、 最終目的地である三厩までは、未だ半分も来ていない現実に気を引き締めた。 右側は芭蕉の辻と刻まれた、未だ新しい石碑であった。 奥州街道の内、仙台道と言われた旧街道の終点で、 この先の奥州街道は松前道とも呼ばれていた。 |
国分町町並み |
大町の芭蕉の辻を過ぎると、国分町(こくぶんちょう、かつてはこくぶんまち)に入る。 国分町は奥州街道沿いの町人町として大町と共に商業の中心地であった。 現在は国分町の南側はオフィス街で、この先の北側は東北地方最大の歓楽街となっている。 仙台牛タンや炉端焼き、レゲエパンチ等は、ここ国分町が発祥之地とか。 レゲエパンチはピーチリキュールをウーロン茶で割った飲みやすいソフトドリンクのようだ。 今回はこの街道沿いのホテル・リッチフィールド仙台に宿泊し、 牛タンで仙台道完全踏破のささやかな祝杯をあげた。 |
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